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青木暁光/デザイン総合研究I の変更点


#author("2025-11-24T14:47:59+09:00","default:art-gs","art-gs")
#author("2025-11-25T01:00:15+09:00","default:art-gs","art-gs")
*デザイン総合研究 I
***青木暁光
#setheadercolor(#ffd700,"#008080",10)
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#slider(left,100%,h1,3000,2000,h1.jpg,h2.jpg,h4.jpg,h5.jpg,h6.jpg,)


***研究テーマ
#hr
CENTER:&scale(120){研究テーマ};
#hr
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CENTER:&scale(120){不鮮明性のデザイン──過剰可視化社会における匿名的自己表現の研究};
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**研究背景・目的
近年、SNS を中心としたデジタルコミュニケーションが日常化し、個人の顔や私生活が容易に可視化される環境が整った。プロフィール写真、ストーリー、ライブ配信などを通じて、個人の“顔”はかつてないほど公開が求められている。しかし一方で、Z世代を中心に「顔を出さない」「横顔・後ろ姿で代替する」「ぼかす・隠す」といった匿名的自己呈示が増加しており、そこには容姿への評価不安やプライバシー保護、比較文化への疲弊といった心理的背景が指摘されている。

こうした状況は、「見られること」が前提となる社会に対し、一部の人々が“あえて見せない”選択を取るという現象として理解できる。これは単なる流行ではなく、精神的な自己防衛やアイデンティティの再編を伴う文化的行動でもある。

この文脈において、写真における「あれ・ぶれ・ボケ・ノイズ」などの“不鮮明さ”は、従来の「失敗」や「技術不足」ではなく、自己を部分的に保護しながら存在を示すための視覚的手段として再評価し得る。歴史的に見ても、ピクトリアリスムやシュルレアリスム写真、実験映画などで“不鮮明さ”は主体の揺らぎ・無意識・曖昧さの表現装置として用いられてきたが、現代 SNS においては、これが匿名性・自己開示の調整・評価への抵抗として新たな意味を獲得している。
 こうした状況は、「見られること」が前提となる社会に対し、一部の人々が“あえて見せない”選択を取るという現象として理解できる。これは単なる流行ではなく、精神的な自己防衛やアイデンティティの再編を伴う文化的行動でもある。
 この文脈において、写真における「あれ・ぶれ・ボケ・ノイズ」などの“不鮮明さ”は、従来の「失敗」や「技術不足」ではなく、自己を部分的に保護しながら存在を示すための視覚的手段として再評価し得る。歴史的に見ても、ピクトリアリスムやシュルレアリスム写真、実験映画などで“不鮮明さ”は主体の揺らぎ・無意識・曖昧さの表現装置として用いられてきたが、現代 SNS においては、これが匿名性・自己開示の調整・評価への抵抗として新たな意味を獲得している。
本研究の目的は、SNS社会における「顔を出さない」文化と“不鮮明な写真表現”の関係を明らかにし、
不鮮明性がどのように心理的・社会的機能を果たし得るのかを検討するとともに、
それを基に 不鮮明ポートレートのデザイン的可能性を探究することである。

具体的には以下の3点を目的とする:

SNS時代の匿名的自己呈示の動向を整理し、なぜ「顔を出さない」自己表現が増えているのかを考察する。
 (例:容姿評価不安、監視・比較文化、プライバシー意識、精神的消耗)

写真史における“不鮮明さ”の役割を再検討し、現代SNS文化における不鮮明表現との接点を明らかにする。
-写真史における“不鮮明さ”の役割を再検討し、現代SNS文化における不鮮明表現との接点を明らかにする。
-自身の制作を通して、あれ・ぶれ・ボケ・ノイズを用いた“不鮮明ポートレート”が、
-自己保護・匿名性・アイデンティティの柔軟性をどのように視覚化できるかを検証する。

自身の制作を通して、あれ・ぶれ・ボケ・ノイズを用いた“不鮮明ポートレート”が、
 自己保護・匿名性・アイデンティティの柔軟性をどのように視覚化できるかを検証する。

最終的には、過剰な可視化と評価を前提とした現代社会において、
写真が「見せないこと」や「曖昧であること」を通してどのような新しい表現的・心理的価値を持ち得るかを明らかにする。
[[※1Pictorialism – the Dawn of Photographic Art>https://www.valokuvataiteenmuseo.fi/en/exhibitions/pictorialism-dawn-photographic-art?utm_source=chatgpt.com]]

//自身は趣味で写真や映像を古い方式のレンズで撮ったりしている。昨今の世の中では「映え」「エモい」などを意識してSNSで話題になった各観光スポット、カフェやレストランに赴きバズっていた投稿とほぼ同じ構図で撮影して投稿される。といったことを自分自身のSNSを通して散見される。また自身も始めたての頃は観光地に赴き投稿されたものと同じ構図で切り抜き投稿していた。しかし、数年前に某感染症の流行により外出の自粛やリモートでの授業参加を余儀なくされた。それにより遠方に赴き写真や映像を撮ることができなくなってしまい、他にできることはないのか探した結果毎日家の周囲をカメラを持って散歩するようになり、普段何気なく歩いている道路や川沿いの道にはたくさん綺麗な景色が広がっていることに気がついた。それらは観光地や映えスポットと称されるものに引けを取らないと感じている。また、自身の名前には太陽にちなんだ暁、光と言う漢字が入っている。幼少期から光が照る下で生きているもの動くものやましてやその光を発する天体にのめり込んだ。光や水は一様にして刹那的に違った表情を見せ、二度とそれとは出会えない一回性のものである。また、日常の一回性の記録は、撮影者にとって「観察」と「構成」の訓練の場であると同時に、「自己と時間との関係をデザインする行為」ともいえる。そのため本研究では、デザイン的視点から、日常の中に潜む一回性の瞬間をどのように見つけ、構成し、意味化するかを探りながら、撮影者自身の視覚的変容や心理的影響を明らかにしていく。
//***箇条書きの例
//-項目1
//-項目2
//--項目2−1
//--項目2−2
//-項目3
//-項目4

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***Fragment
-海外ないし日本では古今東西美しいと思ったものを何かしらの形でアウトプットされてきている。主に平安時代であれば和歌、江戸時代には浮世絵であったりなどといった美しいと思ったものを何かしらの形で表現される事が常である。これらのように現代では主にカメラやスマートフォンで美しいと思ったものにシャッターを切りSNSへ投稿することが日常になった。しかし一貫して何気なく綺麗だと思ったものを何気なく形にするというプロセスを描くこの行動原理に対して疑問を抱いたのがきっかけ。
-[[シニフィアン、シニフィエ>https://tetsugaku-chan.com/entry/Saussure#:~:text=%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%82%E3%82%8B%E7%89%A9%E4%BA%8B,%E6%B5%AE%E3%81%8B%E3%81%B6%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%80%8D%E3%81%8C%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82]]
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***研究テーマ候補
-日常風景の美的価値とその記録行動に関する一考察
-身近な景色を記録する動機と表現意識の変容
-「映え」から「私的視点」へ:個人の映像記録に見る日常美の再発見
-都市生活者における写真表現と日常空間の再解釈
-写真による日常の一回性の記録
-私的空間における美意識の変容
-「そこにある光」を撮るという行為の意味論
-「日常を切り取る」衝動の源泉を探る
-私の世界を映す:身近な景色が美しく見える理由
-レンズ越しの心の記録
-写真による日常風景の再構築
~



***参考文献
[[中井正一「現代美学の危機と映画理論」>http://www.kyusan-u.ac.jp/]]
[[ロランバルト「明るい部屋」>https://www.msz.co.jp/book/detail/04905/]]
[[スーザン・ソンタグ「写真論」>https://www.msz.co.jp/book/detail/04905/]]
[[日本の美意識」の源流としての『神道的自然観』と『無常』>https://magazine.wadaiko-kohasu.com/traditional/461/]]
~


***成果物の仕様
//***リンクの張り方の例
//-内部リンク:[[学生一覧]]
//-外部リンク1:http://www.kyusan-u.ac.jp/
//-外部リンク2:[[九産大>http://www.kyusan-u.ac.jp/]]

~

//***整形済みテキストの例
//上記箇条書き、リンク、以下のように記述しています。
// -項目1
// -項目2
//--項目2−1
//--項目2−2
// -項目3
// -項目4
~
**2025.11.16
''本研究の展望について考える''
***1.「自己肯定感の低下」と“不鮮明な写真”の需要は強くつながっている
近年、特に若年層で
-自己肯定感の低下
-SNSによる比較疲れ
-顔写真への抵抗
が増えている。
この状況で、不鮮明な写真は
-美的理想と比較されにくい
-他者評価を避けられる
-自分を傷つけない距離を保てる
-でも存在は肯定できる
という心理的な“セーフティ”として機能する
***参考資料
-[[SNS上の画像編集と自己肯定感>https://bmcpsychology.biomedcentral.com/articles/10.1186/s40359-023-01143-0]]
→ SNSでの写真編集行動が「自己対象化(self-objectification)」や「外見比較」を介して、自分の魅力の自己評価(self-perceived attractiveness)や自尊心(self-esteem)を下げる傾向がある。 この研究は、「キレイに見せる」ために画像を加工することが心理的なプレッシャーや自己評価低下につながる可能性を示している。
-[[SNSと美の理想・比較の影響>https://link.springer.com/article/10.1007/s40894-022-00179-4]]
→ SNS上の理想化された画像を見て、他者と比較する過程 (appearance comparison) が、若者の身体イメージの不満 (body dissatisfaction) を高める。
また、The Impact of Social Media on Body Image Perception in Young People(MDPI)でも、SNSにおける外見基準の提示と自己肯定感・自己イメージの関係が論じられている。
-[[外見不安・評価への社会比較と不安>https://www.mdpi.com/2076-328X/15/1/8]]
→ SNSで他人の見た目と自分を比較する「上向き社会比較 (upward social comparison)」が、外見不安 (appearance anxiety) をもたらすというモデルを支持。このような比較が「見られる自分」と「理想の自己像」のギャップを生じさせ、精神的負荷につながる。
-[[精神医療・クリニック視点>https://health.clevelandclinic.org/social-media-and-body-image?utm_source=chatgpt.com]]
→ フィルターや写真編集が自己の外見に対する歪んだ認知や不安を強め、自尊心に悪影響を与える可能性がある、という解説。
~
***2.「自己像のコントロール」という新しい文化的傾向を示す
SNSでは透明度の高い自撮りや顔写真がスタンダードになった一方で、
-あえてぼかす
-顔を写さない
-後ろ姿だけ
-影だけ
-反射で隠す
-低解像度にする
といったスタイルが若者の間で急増している

不鮮明さは
「見せたい/見せたくない」
「知られたい/知られたくない」
という相反する欲求をうまく両立させる手段として働いている
***参考資料
-[[boyd,danah.>https://www.researchgate.net/publication/281562649_It's_Complicated_The_Social_Lives_of_Networked_Teens]]
→ Z世代が“必要な範囲しか開示しない”という選択的可視化を行うと指摘。
-[[Marwick,Alice.>https://dokumen.pub/status-update-celebrity-publicity-and-branding-in-the-social-media-age-9780300199154.html]]
→ SNSユーザーは「パーソナルブランド」を作るために
 自己像を戦略的にコントロールしている。
-[[「顔」は余計な情報? Z世代が重視するのは映えより世界観>https://www.fashionsnap.com/article/2025-10-18/senken-z-generation-sns/?utm_source=chatgpt.com]]
-[[Z世代のSNSアイコン・人格に関する調査>https://manamina.valuesccg.com/articles/4639?utm_source=chatgpt.com]]
~
***3.「プロフィール写真としての不鮮明さ」は社会的機能になっている
従来:プロフィール写真=「明瞭で本人と分かる写真」
今:プロフィール写真=「本人らしさを間接的に示す視覚表現」
つまり
プロフィール写真の役割そのものが変わってきている。
-不鮮明さは
-自分を守る
-評価から距離を置く
-正確ではないが「雰囲気」を伝える
-安心しながら参加できる手段
として新しい社会的役割を持ち始めている。
本研究が捉える“過剰可視化社会からの揺り戻し”の証拠にもなる。
***参考資料
-[[博報堂・生活総研による調査>https://webtan.impress.co.jp/n/2020/12/09/38418]]
→ Z世代のInstagramプロフィールで「顔を隠すアイコン(後ろ姿など)」が21.7%。理由として「きめ顔を見られたくない」が挙げられている。
-[[Z世代のSNS利用最新動向2025」>https://www.shibuya109.co.jp/shibuya109lab/reports/250826/?utm_source=chatgpt.com]]
→ 75.6%が「顔やスタイルが映っている写真を投稿することに抵抗がある」と回答。
~
***以上3点から考えられる本研究の展望は
近年、SNSを中心とした情報共有環境の発達により、日常的な視覚情報が容易に拡散される便利さが高まる一方で、同時にその環境は“他者との比較”や“外見を基準とした評価”を強化し、微細な差異でさえ排除の契機となりうる側面を持つ。このような過剰可視化の社会構造のなかで、若年層を中心に自分の顔や容姿を明瞭に見せることに対する抵抗感が増している傾向が報告されている。

その結果、プロフィール写真やアーティスト写真において、意図的な不鮮明さ(あれ・ぶれ・ボケ)を採用する事例が増加している。この現象は、不鮮明な写真が単なる美的嗜好ではなく、他者からの評価を避けるための“心理的・情報的なセルフディフェンス”として機能していることを示唆している。

また、評価や比較を前提とした社会環境において、人々は“他人から必要以上に注視されないための工夫”を求めるようになっている。一方で、完全に匿名化されることを望むわけではなく、「他者とのつながりを保持したい」というニーズも確かに存在する。そのため、不鮮明さは “見られすぎたくない自分”と“存在を表明したい自分”の間に生まれる葛藤を調整する視覚的戦略 として作用していると考えられる。

このような動向は、不鮮明さが個人の心理的安全性を確保しつつ、アイデンティティを表現するための新たなデザイン的手段となり得ることを示している。したがって、不鮮明な写真表現の研究は、現代社会における自己像管理、コミュニケーションデザイン、さらには“排除に向かう社会構造”のなかで生きる個人のあり方を再考するうえでも重要な視点を提供すると言える。
~
***Fragment
スマホ社会では情報鮮明すぎ問題が深刻である。
[[情報過多とストレスの関係性>https://heisei-ikai.or.jp/column/jyoho-kata/]]
InstagramやTikTokではすでに
「曖昧な写真」「ぼかしエフェクト」が人気で、日常写真の新しい表現になっている。
[[https://roronto.jp/mkt/instagram/recommended-blur-effects/#toc-heading-0]]

~
**2025.10.28
***-[[進捗>https://aki613.github.io/unclear/]]
-Homeページの制作
-galleryページの制作
~
**2025.10.22
***サイトマップ
#image(サイトマップ.jpg)
***ワイヤーフレーム
#image(ワイヤーフレーム_Home.jpg)
#image(ワイヤーフレーム_Gallery.jpg)
#image(ワイヤーフレーム_Series.jpg)
#image(ワイヤーフレーム_Statement.jpg)
#image(ワイヤーフレーム_About.jpg)
//#image(ワイヤーフレーム_About.jpg)

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**2025.10.14
***他の芸術に存在する不鮮明さ
''印象派(Impressionism)''
-時期:19世紀後半(1860〜1880年代頃)
-場所:主にフランス・パリを中心に展開
-代表的な画家:クロード・モネ、オーギュスト・ルノワール、カミーユ・ピサロ、エドガー・ドガ など
-生まれた背景
産業革命後、写真の登場によって「現実を正確に描く」必要が薄れた。都市化・近代化が進む中で、瞬間の光・空気・感覚をどう表現するかが新しいテーマになった。
写真が“記録”を担うようになり、絵画は“感覚の再現”へと役割を変えた。
-特徴

1.輪郭の曖昧さ
-線で描くのではなく、色と光の筆触で構成。
-結果として、全体がやわらかく「不鮮明」に見える。

2.瞬間性の重視
-時間の経過や光の移り変わりを描く。
例:モネの《印象・日の出》(Impression, soleil levant)
→ 「印象派」という名前の由来にもなった作品。

3.客観的再現から主観的感覚へ
-世界を“どう見えたか”という体験そのものを描く。
-観察者=画家の感覚が前面に出る。

絵画というものが写真自体“記録”を担うようになり、絵画は“感覚の再現”へと役割を変えたことが写真にも同じ流れが来ているのではないかと考える
[[【印象派 結成150周年】世界一わかりやすく印象派を解説してみた>https://ims-create.co.jp/art/4633/]]
~
**2025.09.23
***ピクトリアリスムとは
''ピクトリアリスムについての概要''
19世紀末から20世紀初頭にかけて展開したピクトリアリスム(Pictorialism)は、写真を単なる記録媒体としてではなく、美術の一領域として確立しようとする動向であった。当時、写真は主に科学的・記録的価値に重きを置かれており、芸術的価値を有するか否かが盛んに議論されていた。ピクトリアリスムの担い手たちは、絵画や版画に通じる造形性や詩的表現を写真に導入することで、その芸術性を主張した。
 その特徴としては、柔らかい焦点やボケを活用したソフトフォーカス、手作業によるプリント操作(ガム印画法やオイルプリントなど)、さらに印象的な光の演出や構図といった「絵画的効果」が挙げられる。こうした技法は、写真を客観的な記録から解放し、主観的・叙情的な表現の可能性を開くものであった。

''主な人物''
アメリカにおけるアルフレッド・スティーグリッツやエドワード・スタイケン、フランスのロバート・デマシーらが知られる。特にスティーグリッツは「フォト・セセッション(Photo-Secession)」を結成し、雑誌『Camera Work』を通じてピクトリアリスムを理論的・実践的に推進した。
 しかし、1910年代以降になると、ポール・ストランドやエドワード・ウェストンらが推進した「ストレートフォトグラフィ」の台頭により、ピクトリアリスムは「過度に絵画に依拠した」ものとして批判を受け、その影響力は急速に衰退した。とはいえ、ピクトリアリスムは写真における「不鮮明さ」や「操作」を芸術的に承認した最初の潮流であり、その後の20世紀写真──たとえば1960年代日本の「Provoke」に見られる「あれ・ぶれ・ボケ」──へと連なる重要な前史と位置づけることができる。
~
***provokeとは
『プロヴォーク』とは、1968年11月、美術評論家・多木浩二(1928-2011)と写真家・中平卓馬(1938-2015)によって発案され、そこに詩人の岡田隆彦(1939-1997)と写真家の高梨豊が同人として加わり創刊された同人誌である。「思想のための挑発的資料」を副題とし、写真とエッセイ、詩で構成されている。第二号からは写真家・森山大道もメンバーとして参加し、第三号まで発行したが、1970年3月に総括集『まずたしからしさの世界をすてろ』の刊行を最後に彼らはその活動を終え解散したとされる。荒れた粒子、ノーファインダーによる不安定な構図、ピントの合っていない不鮮明な写真群は「アレ、ブレ、ボケ」と揶揄され、賛否両論を巻き起こし、ときには写真という枠を超えて大きなインパクトを同時代に与えた。しかしながら『プロヴォーク』は現在、入手困難な稀覯本となっている。
~
~
***不鮮明さの系譜
上に記してある通り
''① 19世紀末~20世紀初頭''
''ピクトリアリスム''
-不鮮明さ=芸術性を高めるための手段
-絵画的効果(ソフトフォーカス・特殊プリント)
-「記録」から「芸術」へ
~
''② 1960年代日本''
''Provoke''
-不鮮明さ=社会批評の手段
-あれ・ぶれ・ボケを通じて、言説化や記録の枠を破壊
-「写真の透明性」への批判、思想的実践
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''③ 現代(2000年代~現在)''
''監視社会・情報社会における不鮮明さ''
-顔認識・AI識別、SNSの過剰な可視化
-不鮮明さ=ノイズ、抵抗、自己保護の戦略
-例:ピクセル化、匿名化、写真の意図的な劣化
~
これらの点から時代の流れと共に不鮮明さが担う役割が異なり変化して言ったことが読み取れる。また、現代では:不鮮明さは「自己保護」「抵抗」として社会的に機能し得るのではないのではないかと考える
~
~
[[ピクトリアリズムとは>https://artscape.jp/dictionary/modern/1198489_1637.html]]
[[provokeとは>https://www.shashasha.co/jp/book/provoke-complete-reprint-of-3-volumes]]
~
**2025.09.16
***実証研究を行うにあたっての大まかな質問項目を考える
1.基本印象(鮮明さ・美しさ・記憶性)
2.感情反応(心地よさ・不安・不気味さ・親近感など)
3.意味づけ(現実性/夢幻性、記録性/表現性)
4.自由記述(思い浮かんだ感情・連想・記憶)
これらの観点から不鮮明な写真と鮮明な写真どちらがどのようみ見えるか質問を行う
①感情反応(主観的感情)
-この写真を見て「心地よさ」を感じますか?
-この写真を見て「不安」を感じますか?
-この写真を見て「不気味さ」を感じますか?
-この写真を見て「親しみ」を感じますか?
-この写真を見て「面白い」と思いますか?
~
② 認知・印象(知覚的評価)
-この写真は「鮮明」に見えますか?
-この写真は「美しい」と思いますか?
-この写真は「現実的」だと思いますか?
-この写真は「夢のよう」だと思いますか?
-この写真は「記録」として信頼できると思いますか?
-この写真は「芸術作品」として成立していると思いますか?
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③ 記憶・連想(自由記述)
-この写真を見て、どのような感情や気分を抱きましたか?
-この写真を見て、何か思い出したことや連想したことがあれば教えてください
この質問から写真における不鮮明さの意義や意味を探る
①,②では3段階評価にて回答してもらう
~
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**2025.07.15
~
***Terri Weifenbachについて
 ワイフェンバックは、日常にある何気ない自然風景のカラー作品で知られる写真家。ピンボケ画面の中にシャープにピントがあった部分が存在する抽象画のような写真が特徴で、夢の中にいるような瞑想感が漂う光り輝く作品には根強い人気がある。
[[Terri Weifenbach 写真>https://imaonline.jp/imagraphy/202205terri-weifenbach/#img5]]
~
~
***Terri Weifenbachについての考察
 テリ・ワイフェンバックは、多くの写真家が「鮮明さ」や「意味の明確さ」を追求する中で、彼女は逆に「ぼけ」「あれ」「ピントの浅さ」「夢のような光のにじみ」を使って、「よく見えないこと」を価値あるものとして提示している。 これは、写真=記録メディアという常識に反する、とても珍しい立ち位置であるのでは。
 彼女の作品は、あえてピントをぼかし、明瞭さを避けることで、視覚に「休息」や「余白」を与える。これは、情報過多で“見えすぎる”現代社会への批評的なまなざしといえる。

'' 主なポイント''
見ることの不確かさ:
 はっきり見せないことで、感情や記憶を喚起する余白を持たせ、「見るとは何か」を問い直す。

視覚の休息:
 即座に理解される画像に慣れた目に、沈黙や遅延を与える

視覚批評としての写真:
 意味を押しつけず、見る側の自由や想像を開く写真は、現代社会によく見られる視覚をコントロールされる写真とは対照的なものとなる。
~
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***研究テーマにどのような親和性があるのか
''1. 不明瞭さを積極的に用いた視覚表現''
ワイフェンバックは、ぼけ・にじみ・ピントの浅さなどを使い、「見えすぎない写真」を撮っている。これは、自身が注目している「あれ・ぶれ・ボケ」を写真の主題・手法として正面から扱っている点と重なる。
~

''2. 「見ること」への問いかけ''
彼女の写真は、即時的な理解を拒み、「これは何だろう?」「どう感じる?」と見ることの主体性や曖昧さを引き出す。自身の研究テーマも、「見ること」が常に明確で情報的であるべきだという前提に対して、不確かで揺らぐ視覚の価値を問おうとしている。
~

''3. 「見えすぎる社会」への静かな批評性''
SNSや広告のような鮮明で過剰な視覚情報とは対照的に、ワイフェンバックの写真は視覚に“休息”や“余白”を与える表現である。これは、自身のテーマにおける「現代社会への批評」としての視覚の在り方に、共通していると考える。
~
これらまとめた事項から、以前記述した失敗写真の美学や侘び寂び、あれブレボケに共通する部分があると気がついた。
~
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**2025.07.08
***侘び寂びから見る欧米諸国との美の差
''1. 完璧さと不完全さ・無常''
-欧米では、対称性、完成度、若さ、美しさの永続性などが理想とされる傾向にある。
西洋→自然は人間が支配すべきもの 
東洋→自然は「人間と調和するもの」
-侘び寂びでは、むしろ「不完全であること」「時間の流れによる変化」が美しさの本質とされる。瑕(きず)やヒビ、古びた質感にこそ味わいがあるとされる。
[[REFINED JAPAN>https://refinedjapan.com/what-is-japanese-aesthetics/?utm_source=chatgpt.com]]
~

''2. 対称と非対称・不均衡''
-西洋美術では、数学的均衡や左右対称が美意識として重視される傾向にある。
-対して侘び寂び(特に禅の原理)では非対称(不均整)**がむしろ調和や自然の摂理に近いと考えられる。
-上記二つの例としてフラワーアレンジメントと生け花に見る文化的違いがある、欧米は自然界における完璧なバランスと対称性を模倣することが、美の究極の形とされている。この伝統は、現代のフラワーアレンジメントにおいても引き継がれており、対称的なデザインとすることで、バランスと調和の追求がなされている。それに対照的で日本の生花は非対称性を通じた自然への敬意をはらっている。非対称性は、生け花において自然への深い敬意を示し、自然界の多様性と豊かさを称え、見る人に自然界との一体感を感じさせることを目的としている。
[[対称vs非対称:フラワーデザインにおける西洋と日本の文化比較>https://flower-shop-alice.com/2024/02/03/beauty-of-symmetry-and-asymmetry/]]
~

''3. 華美な素材と素朴な自然素材''
-欧米では光沢や豪華さ、人工素材、高価な装飾が好まれることがある。
-侘び寂びでは、木・土・紙などの自然素材の素朴さ、そして経年変化による味わいを重視する傾向がある 。
-主な例として蝋燭とキャンドル、食事に使うスプーンフォークと箸などが挙げられる。
[[日本と西洋の文化の「違い」はどこからくる?>https://www.kagura.co.jp/blog/interiorandhousing/5664/]]
[[キャンドルとろうそくの違いは? 和ろうそく・西洋ろうそくとは?>hhttps://www.candleworld.co.jp/library/detail/19/]]
~

''4. 表層的装飾と内面的深み''
-欧米の美的価値は視覚的印象や装飾の華やかさに重きを置かれることが多い。
-侘び寂びでは、見えるものの背後にある時間・空間・心の余白—つまり「見えないもの」に深い意味や趣(おもむき)を見出す
[[Wa-Japan: Exploring the Essence of Japan>https://wa-japan.org/wabi-sabi-bringing-profound-beauty/?utm_source=chatgpt.com]] 
~

''5. 西洋における類似概念''
-ヴィンテージ、インダストリアル、グランジなどが「不完全さ」や「使い古された味わい」を取り入れているが、これは侘び寂びそのものではなく、西洋的文脈で解釈されたスタイルである 。
-一方で、北欧のヒュッゲ(hygge)は「居心地の良い生活」を目指す点で近い部分が見られるが、侘び寂びのような「禅的精神」や「時間の深み」は希薄である 。
[[海外のインテリアトレンド Japandi style(ジャパンディスタイル)とは?>https://next-haus.jp/column/column-main/3353/]]
~

つまり、欧米の美学が「見えるものの完璧さ」や「装飾性」を追い求める傾向にあるのに対し、侘び寂びは「見えない時間・心・無常」に美を見出す点が根本的に異なる。この違いは、失敗写真のような「偶発性・余白ある曖昧さ」を評価する視点と極めて親和性があると考える

**2025.06.24
***アレブレボケについて再調査
''1. 失敗写真の美学の動き''
近年、SNS上で「#失敗写真」や「#全日本失敗写真協会」といったハッシュタグが注目を集めていた。意図しない結果として生まれた写真が、ユニークで魅力的な作品として共有され、多くの人々に楽しまれている。これにより、失敗写真が新たなアートフォームとして再評価される動きが広がっている。
-[[失敗写真集>https://citsc.jp/spring/kikaku03.html]]
-[[全日本失敗写真協会>https://x.com/hashtag/%E5%85%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%B1%E6%95%97%E5%86%99%E7%9C%9F%E5%8D%94%E4%BC%9A?src=hashtag_click]]
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''2. アレブレボケと日本文化における不完全の美の関係性''
日本の美学には、侘寂(わびさび)という概念がある。そもそも侘び寂びとは一つの言葉として役割をなしているように思えるが、本来『詫び』『寂び』の二つにわかれ個々で意味があるものであり、「わび」は、古語である「侘(わ)ぶ」という動詞に由来し、気落ちする、困惑する、辛く思う、寂しく思う、落ちぶれる。という劣った状態を表す否定的な言葉で、そこから転じて「質素で簡素な暮らしをする」という意味になった。また、「さび」も古語である「さ(寂)ぶ」という動詞からで、古くなる、色あせる、錆びる。という意味がある。時間の流れによる劣化や生命力がなくなっていく様子を表し、こちらもネガティブな意味合いを持つ言葉であり、それが転じて、古くなることで出てくる味わいや、朽ちていく様子に対して、美しいと感じる心に美を求めるのが「さび」の意味であり、由来だ。と下記サイトに記してある。これは、欠陥や不完全さ、儚さの中に美を見出す哲学である。例えば、壊れた陶器を金で修復する「金継ぎ」は、傷を隠すのではなく、あえて強調することで新たな美を創造する。また村田珠光(しゅこう)・武野紹鴎(たけのじょうおう)らによって作られた、簡素で静寂さを感じる道具を使って行う『侘び茶』。このような物を通じて心を映し出す静かな余白、見えていないものを自ら感じ取る価値観は、日本古来から続くものであり、失敗写真の美学とも通じるものがあると感じる。
-[[何げない日常に潜む日本文化~わび・さび~>https://1200irori.jp/content/learn/detail/case25]]
-[[【うつわの取扱い】壊れた器を美しく蘇らせる伝統技術・金継ぎの魅力>https://blog.koroha.jp/%E5%A3%8A%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%99%A8%E3%82%92%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%8F%E8%98%87%E3%82%89%E3%81%9B%E3%82%8B%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%83%BB%E9%87%91%E7%B6%99%E3%81%8E%E3%81%AE%E9%AD%85/]]
-[[わびさびとは何か?日本人ならではの美意識をわかりやすく解説>https://blog.koroha.jp/%E5%A3%8A%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%99%A8%E3%82%92%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%8F%E8%98%87%E3%82%89%E3%81%9B%E3%82%8B%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%83%BB%E9%87%91%E7%B6%99%E3%81%8E%E3%81%AE%E9%AD%85/]]
[[「わびさび」を感じる時間3選>https://yogu.jp/blogs/take-a-break/wabisabi?srsltid=AfmBOorF2yJns3cQVv4XnzMLf5zMJ6VSYGu5cJk9FdCytaStxbbTwezc]]
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''3. 失敗写真の美学''
現代アートの分野では、「失敗」を積極的に取り入れる動きがある。例えば、グリッチアートは、デジタル技術のエラーやバグを意図的に利用し、新たな美的価値を創出する表現手法である。このように敢えて正解とされる方に沿わずに崩して表現するアートも存在する。これは写真にも通づるものがあると考える。
[[グリッチアート>http://www.osadagenki.com/gvgas/ja/about-glitch-art/]]

**2025.06.10
***なぜ写真映像と音楽は親和性があるのか?
''1. 感覚の「時間性」と「空間性」が補完し合う''
-映像・写真:視覚
写真:瞬間的なもの
映像:空間+時間の流れを持つ
-音楽:聴覚メディア
基本的に「時間」を含むメディア(音が時間を刻む)
→そのため写真や映像に音楽が加わると『時間的な感情の流れ』ができる。
静的な写真であっても音楽が加わると『物語』や『気持ち』が生まれる
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''2. 感情に直接働きかける感覚''
-音楽は抽象的なのに、感情に直接訴えかける力がある
明るい・切ない・不穏・懐かしい…など、具体的に何を表していなくても感情を揺さぶる
-映像や写真は具体的な視覚情報だが、それ自体では感情が曖昧なことがある
→ 音楽が「感情のナビ」として視覚に意味を与える
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''3. 物語・意味・記憶を同時に喚起する''
-多くの人が、「音楽と映像の組み合わせ」によって記憶や物語を感じる
-映画のワンシーンの感動は、音楽がなければ半減することが多い
-ミュージックビデオでも、映像だけでなく音楽がその世界観を「作っている」

つまり、音楽が視覚情報に「物語」や「記憶の匂い」を付け加えるメディアとして機能する
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''4. 文化的学習による親和性の強化''
-映像と音楽がセットで使われる場面が、私たちの身の回りにあふれている
-映画、ドラマ、CM、MV、SNS動画… ほとんどが「音+映像」で構成されている
→ 視覚と音の同時体験に慣れている自分たちの脳は、それを「自然な組み合わせ」として認識している。即ち音楽と映像との親和性が学習されている
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''5. 感情の翻訳装置としての音''
-音楽はそこに一つの「読み取り方」=解釈のヒントを与える
→ 音楽は視覚情報に対して「こう見てほしい」というメタファー(比喩)」を与える
上に記している写真や映像に音楽が及ぼす影響は逆もまた然りであり、相互に作用している。
***参考文献
''[[ミシェル・シオン(Michel Chion)Audio-Vision: Sound on Screen(和訳)>https://www.korpus.org/archives/3500]]''
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#youtube(BdAJOI9zeKY)
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|#img(frag05.jpg)|#img(frag06.jpg)|

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**2025.06.03
***写真と映像の違いとは
最初カメラを持ったとき写真から始めたが写真だけでは物足りなくなって今度は映像を撮るようになった。そこで根本的に写真と映像では何が違うのか比較をしてみた。
| | 写真 | 映像 |h
| 時間 | 一瞬を切り取る | 時間の流れを含む |
| 表現 | 静止画で構成 | 動き・音・編集が加わる |
|メディア	|1枚の画像(静止)|動画(連続する画像+音声)|
|体験|一瞬の「凝縮された情報」|時系列に沿った「展開」|
|機材や形式|カメラ(スチル)|ビデオカメラ・スマホ・編集ソフトなど|
|観賞方法	|一目で全体を把握できる|再生しながら理解する必要がある|
さらに堀り下げると…
***写真
CENTER:&scale(120){『一瞬の凝縮』};
写真は「シャッターを切った一瞬」を永続させる。この時間の停止が写真の特権であり、そこに象徴性や詩的な読解可能性が誕生する。
-写真は、現実の一部分を切り取ることで、かえって想像を広げる。
-空気感があっても、それは鑑賞者の記憶や感覚によって「想起」されるもの。
***映像
CENTER:&scale(120){『空気ごと時間を“保持”する』};
映像には、時間の流れ・温度・光の変化・音・動作・感情の揺れといった要素が含まれる。それにより、ただの“視覚情報”にとどまらず、その場の「空気ごと保存する」ような力がある。
-カメラがパンすることで、空間の広がりが伝わる。
-俳優の目線、呼吸、ため息、沈黙の「長さ」が場の空気を支配する。
-音や時間によって、記録が“記憶”になる。

***比較してみて
写真と映像は同じカメラで撮影しても似て非なるものだと感じた。写真は一瞬を凝縮し、強い象徴性や感情のインパクトを生む力を持つ。一方で、被写体の動きや感情の変化、物語の展開といった「時間的側面」を伝えるには限界がある。この研究では、写真と映像の表現の差異を明確にしながら、「なぜ写真では済まないのか」という問いを通じて、映像メディアが果たす役割と可能性を検討する。
また、写真は『詩的』で映像は『音楽的』だとも感じた。
写真が詩的である理由は写真は瞬間を捉え詩もまた、言葉を通して瞬間や感情を表現するため、映像が音楽的である理由は、静止画とは異なり、時間の流れとともに変化する。音楽もまた、時間の流れとともに音やリズムが変化するため、映像との共通点が見られる。
***Fragment
-アレブレボケについて
現代はSNSや監視カメラ、4K・8K映像など、現代はあらゆるものが「鮮明に」「正確に」「過剰に」見えてしまう社会である。
でも人間の知覚は本来もっと不完全で、「揺らぎ」「誤解」「錯覚」「余白」が含まれている。
だからこそ、“見えないもの”があることで、見えているものに深みが生まれると感じる。
-写真は先入観を含んでみることで楽しんでいる?
**2025.05.26
***Fragment
-言語化するのはアナログデータをデジタルデータに変換するようなもので曖昧な概念を離散させて段階的にさせるもの
-写真は言語化から対極に存在するもの
-時代ごとに写真が持つ役割とは?
[[「記録から記憶へ」写真が紡ぐ家族史 ー 家族アルバムの役割と意義 ー>http://g.kyoto-art.ac.jp/reports/4443/]]
上記サイトでは時代の変容による写真が担う役割の変化について書かれている。簡単にすると『写真は家族の記録や思い出を残す大切な手段であり、特にアルバムは家族の歴史やつながりを感じさせるもの。昔は紙のアルバムが主流だったが、今はデジタルでも残せる。写真は「記録」が「記憶」となり、人の心を支える力がある。』
写真は本質的に記録するものとして機能しているが、アルバムなどを見ていると「記録」のような側面ではなく思い出という要素が加わり「記憶」として懐かしんでいると自身の体験から強く感じる
それに比べ、特に今の時代においてはスマートフォンやデジカメで撮影するようになり、写真というものはかなり個人的なものになってきているのに加え何かしらの形にするのではなく電子媒体に蓄積されていき形にする際に付随する懐かしむという心の動きが比較的に少なくなっているのではと感じた。
-写真と映像を主に研究しようとしていたが写真一本に絞り、瞬間を捉え画にするという映像とは違った考え方を持った写真を研究していきたい。
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**2025.05.20
***デザイン的視点から見る写真の一回性の記録の研究テーマ案
-「記録は誰のためのデザインか、写真・映像における一回性の記録と撮影者の自己変容」
→ 記録行為を自己認識のデザインと捉え、主観性と表現性の関係を掘り下げる。
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-「不可逆な日常をデザインする——写真と映像による一回性の記録とその身体的感受」
→ “今ここ”の非再現性を身体的・感覚的な経験として記録し、それをどのようにデザインし得るか。
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-「見ることの再学習——写真・映像による日常の観察と記録のデザイン的効果」
→ 見慣れた日常を再発見させる記録行為が、撮影者の「見る力」をどのように鍛えるか。
CENTER:&scale(120){"一回生というものは、不可逆的で歴史的な性格をもっている"};
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-[[「現実認識とは何か――形相的理念型による啓蒙」橋本努(著)>https://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20What%20is%20the%20Recognition%20of%20Reality.htm]]
この論文では我々が生きている「現実とは何か」を四層構造で捉え直す社会学的・哲学的考察である。四層構造の内訳として簡略化すると
1.生の現実(リアルに感じてる世界)
五感や感情で直接感じているもの。 たとえば、「風が気持ちいい」「空がきれい」といった、まだ言葉になっていない感覚。
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2.日常の現実(ふだんの生活で信じてる世界)
 「学校」「バイト」「友だち」などの、意味を深く考えずに使ってる言葉の世界。ふだんは気にしないけど、ある程度共通の理解がある。
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3.概念的な現実(学問や理論でつくられる世界)
社会学や歴史学などで、「社会とは?」「日本人とは?」などを考えるときに出てくる、少し抽象的な世界。本当には存在しないけど、理解を助けるために作り出す「モデル」みたいなもの。
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4.規範的な現実(あるべき姿の世界)
「こうあるべき」「こうするべき」という倫理や価値観の世界。(このテキストではあまり触れてない)
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この論文から私は三つの接点を感じた
接点1.「生の現実」と写真体験
写真を撮る行為は、「生の現実」に強く触れる瞬間であり。撮影者が風景と出会い、それを感じ取り、意味づける過程は、「生の現実」への接近行為。特に日常的な風景に感動したり、自分なりの美的価値を見出す経験は、意味以前の身体的・情動的体験に根差している。
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接点2.「日常的現実」と風景の変容
同じ風景でも、写真によってそれが「日常的現実」から切り出され、「非日常的」という新たな意味が与えられる。これは、風景のカテゴリー化・意味化(再日常化または非日常化)を意味し、撮影者の内的構造にも影響を及ぼす可能性があるのではないか。
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接点3.:「概念的現実」と写真研究
撮影された風景写真を用いた研究において、私たちは「概念的現実」を構成することになり、たとえば「なぜこの風景を美しいと感じたのか?」を分析するには、撮影者の意図・経験・社会的背景などを整理し、共通項を抽出する必要がある。これはウェーバーの「理念型」構成※1に近い方法であり、社会科学的なアプローチとも言える。
※1[[ウェーバーの「理念型」>https://souzouhou.com/2021/12/19/max-weber-2/#i-2]]現実理想的な社会を判断基準として今の社会や過去の社会を分析するということ

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**2025.05.13
***興味の洗い出し
***写真や映像を残したくなるのはなぜ?
         ⇩
-無常感と無常観が写真に影響を及ぼしているのでは?
[[無常感と無常観01>https://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/hw-bunnka5.htm]]
[[無常感と無常観02>https://iyo-monogatari.jp/nihonjin/character/9110.html]]
『無常』の「常」とは、「常にそのまま」ということ、それに「無」がつくと、「常にそのままで無い」となるので「変化する」ということ。
常に同じのものは無いからこそそれを残して懐しんで、愛でたいから撮りたいという欲求を喚起しているのでは。
|#img(frag03.jpg,70)|#img(frag04.jpg,50)|
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-映る人たちそれぞれに存在する日常を映像や写真に納めたい
#youtube(_WCGCxgvCWw)
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-[[東京会議(小山薫堂出演の番組)>https://www.bsfuji.tv/tokyokaigi/]]
写真部の回、小山薫堂/松任谷正隆/ハービー・山口/藤堂正寛が出演しておりそれぞれ海外や身近なところに赴きスナップを撮って評価し合うという番組を見て改めて散歩や遠出をし、写真を撮ることがどんなに大切か認識させられた。
**2025.4.22
***Fragment
-海外ないし日本では古今東西美しいと思ったものを何かしらの形でアウトプットされてきている。主に平安時代であれば和歌、江戸時代には浮世絵であったりなどといった美しいと思ったものを何かしらの形で表現される事が常である。これらのように現代では主にカメラやスマートフォンで美しいと思ったものにシャッターを切りSNSへ投稿することが日常になった。しかし一貫して何気なく綺麗だと思ったものを何気なく形にするというプロセスを描くこの行動原理に対して疑問を抱いた。
-元来、なぜ人は感動したものを形として残したくなる心理になるのか
-まずは自分の撮った写真に対しなぜ美しいと思ったかの言語化が必要?
|#img(frag01.jpg,70)|#img(frag02.jpg,50)|
[[日本の美意識」の源流としての『神道的自然観』と『無常』>https://magazine.wadaiko-kohasu.com/traditional/461/]]