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伊藤晃生/FeliceBeato のバックアップ(No.2)


フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)


Felice Beato

英名「フェリックス・ベアト(Felix Beato)」
1832年~1909年(79歳没) 写真家、起業家


 日本に手彩色写真文化を最も普及させた第一人者。
1863年、横浜で写真館を開業。波乱な幕末の世を撮影し続け、日本絵具で着色したカラー写真(横浜写真)を販売し、外国人旅行客によって世界中から写真が注目されるようにる。弟子には、手彩色技術を受け継いだ下岡蓮杖や日下部金兵衛もいる。
 このほかに「ジャパン・パンチ」でお馴染みの風刺画家チャールズ・ワーグマンとは、戦友関係でもある。度々、「ジャパン・パンチ」内でもデフォルメされたベアトが登場している。



生い立ち

1832年イタリア・ヴェニスに誕生し、2歳以降はイギリス保護領であったコルフ島(イオニア諸島合衆国、現:ギリシャ)で過ごしたとされている。その後、弟:アントニオ(Antonio Beato)と共に写真家への道に進んだ。



東ローマ帝国(現:トルコ)で写真館開館




写真家の助手ベアト

1856年、ベアト24歳の時にクリミア戦争の戦時下に4月~7月の3か月間、写真助手として派遣。経緯としては、ベアトの隣人であり妹の結婚相手であるイギリス人写真家ジェームズ・ロバートソン(James Robertson)の誘いである。
当時、クリミア戦争を写真で記録し続けていた報道写真家ロジャー・フェントン(Roger Fenton)が病気に掛かってしまい、代理としてロバートソンが選ばれた。彼は、過去に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現:トルコ・イスタンブール)で写真スタジオを開業するなどの経歴があり、造幣局で主席彫版師として国に仕えていたこともあって派遣されたとされている。
派遣から2年後、ロバートソンの誘いでベアト、助手として戦地に赴く。



初の日本入国、それからの移住へ

 1863年8月、スイス全権大使エメ・アンベール(Aimé Humbert-Droz)の日本国内旅行にベアトとワーグマンが同行し、横浜、下関、鎌倉、金沢、京都、東京へ足を運んだ。
 その翌年、横浜で20年間の日本生活をはじめるベアトであった。ワーグマンと友に写真会社「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」を設立。当時、人気であった浮世絵からヒントを得て、写真(白黒)に直接色を塗ってカラー写真にする手彩色写真(横浜写真)を確立する。しかし、開業から3年後の1866年旧暦10月に関内大火(豚屋火事)によって写真館は全焼し、資材もすべて灰になってしまった。
 ベアトは諦めず、会社の再建を目指し、明治政府誕生の1年後である1869年に再び横浜の地で写真会社「F. Beato & Co., Photographers」の立ち上げに成功。外国人と日本人を合わせ約9名で会社を運営していたとされている。



現在でも不明な事