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青木暁光/論文構成 のバックアップ(No.4)


論文構成

不鮮明のデザイン──過剰可視化社会における写真表現の可能性
論文・作品

CONTENTS




第1章 序論:なぜ、いま“不鮮明な顔”なのか

1.1 研究背景

 この状況はしばしば※2「過剰可視化社会(hyper-visibility society)」と呼ばれる。そこでは、個人が常に「見られている」ことを意識しながら自己像を管理し続ける文化が成立している。高性能なスマートフォンカメラ、加工アプリ、AIフィルタ、分析アルゴリズムなどの技術は、身体を鮮明に、理想的に表象することを可能とし、同時にそれを継続的に更新することを暗黙に要求する。視覚化された自己像は、他者からの評価・比較・ランキングの対象となり、いわばパフォーマンスとしての身体**が可視化の中心に置かれる。

この環境の中で、可視化は単なる「見る/見せる」行為ではなく、社会的圧力として作用する。美しさ、明晰さ、若さ、正確さ、鮮明さといった基準がアルゴリズムによって強化され、ユーザーはそれに同調することで承認を獲得し、逸脱すれば消費・流通のネットワークから排除される。結果として、自己像は外部の視線に最適化された状態で生成され続け、自己表象は自由な表現ではなく、管理されるべきパフォーマンスへと変質している。

しかし、この過剰な可視性への反動として、近年「顔を出さないプロフィール画像」が増加している。そこでは、ぼかし、影、後ろ姿、低解像度、抽象化、あるいは物体・風景など、顔を直接提示しない形式が選ばれている。これは単なる匿名性の選択ではなく、見られることへの抵抗、あるいは可視化の制度から距離を取るための戦略として解釈できる。すなわち、鮮明さではなく不鮮明さが、アイデンティティを守り、自己像の主導権を確保するための手段として機能し始めているのである。

かつて写真における「あれ・ぶれ・ボケ」は、技術的欠陥や失敗とみなされてきた。しかし今日、この不鮮明さはむしろ、情報過多の環境における余白、あるいは自己の距離調整機能として新たな意味を帯びている。過剰可視化社会において、不鮮明さは「隠すこと」ではなく、「見せ方を選択すること」、すなわち自己決定権としての視覚表現へと転換しつつある。

この変化は、視覚文化の価値観が「鮮明さ=真実・適切さ」という近代的写真観から離れ、曖昧さ・断片性・不完全性を受け入れる方向へ移行していることを示す。すなわち、不鮮明さは現代社会の新たな自己像の形式として浮上しており、これは単なる視覚的スタイルではなく、可視化と匿名性、承認と距離、露出と自己保護の間で揺れる現代的主体の表象として、重要な研究対象となりつつある。

1.2 問題意識

(1)事例:顔を出さないプロフィールの増加

しかし、その一方で、現代のSNS空間には「顔を出さない」プロフィール画像を選択する層が確実に増加している。ぼやけた写真、後ろ姿、手、身体の一部、さらに動物や風景、抽象画像など、顔以外のイメージが自己表象として採用される例が顕著である。 TikTok、Instagram、X、Discordなど複数メディアで、こうした匿名的・非鮮明的プロフィールはジャンル・年齢を超えて広がりを見せている。

この現象は偶発的な傾向ではなく、「顔を見せることが社会的に望ましい」とする規範への批判的態度、あるいは距離の取り方として生まれたものであり、社会的潮流として看過できない。

(2)課題:可視化と承認欲求による心理的負荷

問題は、このプロフィール選択の背後にある心理である。可視化社会において、顔画像は評価、比較、監視、審美基準との照合といった多重の意味を帯びるため、プロフィール画像の選択行為は単なる美意識の問題ではなく、他者からどう見られるかをコントロールしようとする心理的・社会的戦略として展開されている。

とりわけ、近年増加している若年層の「顔出し拒否」は、自尊感情の低下、外見至上主義への防衛、比較疲労、オンライン上での身体評価への不快感など、多様な理由が重層的に絡んでいると考えられる。

すなわち、これは匿名でいたい願望ではなく、可視化されすぎる社会への防御反応としての匿名性である。

(3)仮説:不鮮明な写真は新たな自己呈示様式である

以上の現象を踏まえ、本研究は次の仮説を設定する。

不鮮明な写真(あれ・ぶれ・ボケ・低解像度・抽象像など)は、単なる技術的欠陥ではなく、過剰可視化社会において個人が自己像のコントロールを取り戻すための表現的戦略である。

この仮説は、

不鮮明さは、見せる/隠すの二分法を超えた、第三の自己呈示方法として機能している可能性がある。

1.3 研究目的・問い

本研究の目的は、現代の視覚文化において「あれ・ぶれ・ボケ・ノイズ」といった不鮮明な写真表現がどのような心理的・社会的役割を果たしているのかを解明し、その意味をデザイン研究の観点から再定義することである。特に、SNSを中心とした過剰可視化社会において、個人が自己像やアイデンティティを提示する際に、従来の鮮明な肖像写真ではなく、不鮮明なイメージを選択する動向に着目する。この表現形式が偶発的な流行や美的嗜好ではなく、心理的防衛・距離の調整・自己保存・想像の余地の確保といった新しい自己呈示の戦略として成立している可能性を検証する。

その際、本研究は単に表現の変遷を歴史的に追うのではなく、**不鮮明さがどのように「意味を持ちうるのか」**を、文化・心理・デザイン実践の三つの軸から捉える。従来、写真における不鮮明さは「技術的欠陥」「失敗」のカテゴリーに置かれてきたが、現代の社会状況においてはむしろ、見せすぎる社会に対する抑制装置や批評的態度、そして自己像の可変性を確保する手段として、積極的な価値を持ち始めている。つまり、不鮮明な写真表現は「隠す/見せる」の二項対立では捉えられない、第三の表現領域=曖昧さ・未定義性・解釈の余地を保持する設計として機能している可能性がある。

本研究では、以下の具体的な問いを設定する:

さらに本研究は、理論的分析と並行して、研究者自身による制作(ポートレート作品)を通じ、不鮮明さの表現がもつ心理的効果や受容の変化を観察・検証する。この制作実践は、単なる作品制作ではなく、撮影者と被写体、そして鑑賞者の関係性に生じる「見えなさの意味」の探求として位置づけられる。

最終的に、本研究は不鮮明さを「曖昧」「欠落」「失敗」としてではなく、精神的余白を設計するための視覚表現=デザインとして再評価することを目指す。これにより、過剰可視化社会における写真表現の役割、そして「見せること・隠すこと・曖昧にすること」のバランスがどのように個人の精神的ウェルビーイングや自己決定性に寄与し得るのかを示し、写真表現およびデザイン研究に新たな視座を提供する。

第2章 理論的枠組み:イメージと匿名性の思想

2.1 視覚文化史の中の“不鮮明性”

印象派/ピクトリアリズム/荒木経惟/現代SNS文化までの系譜

2.2 匿名性・自己呈示の理論

ゴフマン、タービン、SNS心理学(self-presentation, curated identity)

2.3 可視性と権力

ミシェル・フーコー、ハン・ビョンチョル「透明社会」
→ 見えすぎる社会と精神的圧迫

2.4 美学と曖昧性

「欠損」「未完」「曖昧さ」「ノイズ」に関する美学理論

第3章 現代SNS社会における顔とアイデンティティの変容

3.1 プロフィール写真の歴史的変遷

(証明写真 → 自撮り → フィルター文化 → 不鮮明写真)

3.2 顔を出さない文化の拡大

VTuber、スタンプ顔、モザイク文化、引きこもり的匿名ではない存在方法

3.3 不鮮明性の機能

防御・負荷軽減・距離の確保・選択的開示・新しい自己像

第4章 調査と分析:不鮮明な顔写真の心理的影響

4.1 調査目的

なぜ人は不鮮明な顔写真を選ぶのか
受容者側はどう感じるのか

4.2 調査方法

オンライン調査・アンケート・写真比較実験・インタビュー

4.3 分析・考察

安心感/抵抗感/親密性/距離/自己防衛感覚
完全匿名とも露出とも違う「中間領域としての存在様式」

第5章 制作研究:ポートレート写真としての“不鮮明さ”

5.1 制作意図

不鮮明性を美学・心理・社会性の交差点として扱う

5.2 制作プロセス

撮影方法(ブレ、ボケ、ノイズ、AI変形など)
モデル選定、展示形式、観者との距離設計

5.3 制作作品の分析と検証

制作前後のモデルの心理変化
観者の受容分析との照らし合わせ

第6章 結論と展望

6.1 研究のまとめ

不鮮明な顔の意味:逃避 → 選択された表現 → 文化的現象

6.2 社会・デザイン研究としての意義

“顔を出さない”ことの再評価
SNSにおける自己表象の新しい倫理・美学モデル

6.3 今後の課題

国際比較、生成AI時代のアイデンティティ、写真実践の深化