




近年、SNS を中心としたデジタルコミュニケーションが日常化し、個人の顔や私生活が容易に可視化される環境が整った。プロフィール写真、ストーリー、ライブ配信などを通じて、個人の“顔”はかつてないほど公開が求められている。しかし一方で、Z世代を中心に「顔を出さない」「横顔・後ろ姿で代替する」「ぼかす・隠す」といった匿名的自己呈示が増加しており、そこには容姿への評価不安やプライバシー保護、比較文化への疲弊といった心理的背景が指摘されている。
こうした状況は、「見られること」が前提となる社会に対し、一部の人々が“あえて見せない”選択を取るという現象として理解できる。これは単なる流行ではなく、精神的な自己防衛やアイデンティティの再編を伴う文化的行動でもある。
この文脈において、写真における「あれ・ぶれ・ボケ・ノイズ」などの“不鮮明さ”は、従来の「失敗」や「技術不足」ではなく、自己を部分的に保護しながら存在を示すための視覚的手段として再評価し得る。歴史的に見ても、ピクトリアリスムやシュルレアリスム写真、実験映画などで“不鮮明さ”は主体の揺らぎ・無意識・曖昧さの表現装置として用いられてきたが、現代 SNS においては、これが匿名性・自己開示の調整・評価への抵抗として新たな意味を獲得している。
本研究の目的は、SNS社会における「顔を出さない」文化と“不鮮明な写真表現”の関係を明らかにし、
不鮮明性がどのように心理的・社会的機能を果たし得るのかを検討するとともに、
それを基に 不鮮明ポートレートのデザイン的可能性を探究することである。
具体的には以下の3点を目的とする:
SNS時代の匿名的自己呈示の動向を整理し、なぜ「顔を出さない」自己表現が増えているのかを考察する。
(例:容姿評価不安、監視・比較文化、プライバシー意識、精神的消耗)
写真史における“不鮮明さ”の役割を再検討し、現代SNS文化における不鮮明表現との接点を明らかにする。
自身の制作を通して、あれ・ぶれ・ボケ・ノイズを用いた“不鮮明ポートレート”が、
自己保護・匿名性・アイデンティティの柔軟性をどのように視覚化できるかを検証する。
最終的には、過剰な可視化と評価を前提とした現代社会において、
写真が「見せないこと」や「曖昧であること」を通してどのような新しい表現的・心理的価値を持ち得るかを明らかにする。
※1Pictorialism – the Dawn of Photographic Art
中井正一「現代美学の危機と映画理論」
ロランバルト「明るい部屋」
スーザン・ソンタグ「写真論」
日本の美意識」の源流としての『神道的自然観』と『無常』
本研究の展望について考える
近年、特に若年層で
SNSでは透明度の高い自撮りや顔写真がスタンダードになった一方で、
不鮮明さは
「見せたい/見せたくない」
「知られたい/知られたくない」
という相反する欲求をうまく両立させる手段として働いている
従来:プロフィール写真=「明瞭で本人と分かる写真」
今:プロフィール写真=「本人らしさを間接的に示す視覚表現」
つまり
プロフィール写真の役割そのものが変わってきている。
近年、SNSを中心とした情報共有環境の発達により、日常的な視覚情報が容易に拡散される便利さが高まる一方で、同時にその環境は“他者との比較”や“外見を基準とした評価”を強化し、微細な差異でさえ排除の契機となりうる側面を持つ。このような過剰可視化の社会構造のなかで、若年層を中心に自分の顔や容姿を明瞭に見せることに対する抵抗感が増している傾向が報告されている。
その結果、プロフィール写真やアーティスト写真において、意図的な不鮮明さ(あれ・ぶれ・ボケ)を採用する事例が増加している。この現象は、不鮮明な写真が単なる美的嗜好ではなく、他者からの評価を避けるための“心理的・情報的なセルフディフェンス”として機能していることを示唆している。
また、評価や比較を前提とした社会環境において、人々は“他人から必要以上に注視されないための工夫”を求めるようになっている。一方で、完全に匿名化されることを望むわけではなく、「他者とのつながりを保持したい」というニーズも確かに存在する。そのため、不鮮明さは “見られすぎたくない自分”と“存在を表明したい自分”の間に生まれる葛藤を調整する視覚的戦略 として作用していると考えられる。
このような動向は、不鮮明さが個人の心理的安全性を確保しつつ、アイデンティティを表現するための新たなデザイン的手段となり得ることを示している。したがって、不鮮明な写真表現の研究は、現代社会における自己像管理、コミュニケーションデザイン、さらには“排除に向かう社会構造”のなかで生きる個人のあり方を再考するうえでも重要な視点を提供すると言える。
スマホ社会では情報鮮明すぎ問題が深刻である。
情報過多とストレスの関係性
InstagramやTikTokではすでに
「曖昧な写真」「ぼかしエフェクト」が人気で、日常写真の新しい表現になっている。
https://roronto.jp/mkt/instagram/recommended-blur-effects/#toc-heading-0
印象派(Impressionism)
1.輪郭の曖昧さ
2.瞬間性の重視
3.客観的再現から主観的感覚へ
絵画というものが写真自体“記録”を担うようになり、絵画は“感覚の再現”へと役割を変えたことが写真にも同じ流れが来ているのではないかと考える
【印象派 結成150周年】世界一わかりやすく印象派を解説してみた
ピクトリアリスムについての概要
19世紀末から20世紀初頭にかけて展開したピクトリアリスム(Pictorialism)は、写真を単なる記録媒体としてではなく、美術の一領域として確立しようとする動向であった。当時、写真は主に科学的・記録的価値に重きを置かれており、芸術的価値を有するか否かが盛んに議論されていた。ピクトリアリスムの担い手たちは、絵画や版画に通じる造形性や詩的表現を写真に導入することで、その芸術性を主張した。
その特徴としては、柔らかい焦点やボケを活用したソフトフォーカス、手作業によるプリント操作(ガム印画法やオイルプリントなど)、さらに印象的な光の演出や構図といった「絵画的効果」が挙げられる。こうした技法は、写真を客観的な記録から解放し、主観的・叙情的な表現の可能性を開くものであった。
主な人物
アメリカにおけるアルフレッド・スティーグリッツやエドワード・スタイケン、フランスのロバート・デマシーらが知られる。特にスティーグリッツは「フォト・セセッション(Photo-Secession)」を結成し、雑誌『Camera Work』を通じてピクトリアリスムを理論的・実践的に推進した。
しかし、1910年代以降になると、ポール・ストランドやエドワード・ウェストンらが推進した「ストレートフォトグラフィ」の台頭により、ピクトリアリスムは「過度に絵画に依拠した」ものとして批判を受け、その影響力は急速に衰退した。とはいえ、ピクトリアリスムは写真における「不鮮明さ」や「操作」を芸術的に承認した最初の潮流であり、その後の20世紀写真──たとえば1960年代日本の「Provoke」に見られる「あれ・ぶれ・ボケ」──へと連なる重要な前史と位置づけることができる。
『プロヴォーク』とは、1968年11月、美術評論家・多木浩二(1928-2011)と写真家・中平卓馬(1938-2015)によって発案され、そこに詩人の岡田隆彦(1939-1997)と写真家の高梨豊が同人として加わり創刊された同人誌である。「思想のための挑発的資料」を副題とし、写真とエッセイ、詩で構成されている。第二号からは写真家・森山大道もメンバーとして参加し、第三号まで発行したが、1970年3月に総括集『まずたしからしさの世界をすてろ』の刊行を最後に彼らはその活動を終え解散したとされる。荒れた粒子、ノーファインダーによる不安定な構図、ピントの合っていない不鮮明な写真群は「アレ、ブレ、ボケ」と揶揄され、賛否両論を巻き起こし、ときには写真という枠を超えて大きなインパクトを同時代に与えた。しかしながら『プロヴォーク』は現在、入手困難な稀覯本となっている。
上に記してある通り
① 19世紀末~20世紀初頭
ピクトリアリスム
1.基本印象(鮮明さ・美しさ・記憶性)
2.感情反応(心地よさ・不安・不気味さ・親近感など)
3.意味づけ(現実性/夢幻性、記録性/表現性)
4.自由記述(思い浮かんだ感情・連想・記憶)
これらの観点から不鮮明な写真と鮮明な写真どちらがどのようみ見えるか質問を行う
①感情反応(主観的感情)
ワイフェンバックは、日常にある何気ない自然風景のカラー作品で知られる写真家。ピンボケ画面の中にシャープにピントがあった部分が存在する抽象画のような写真が特徴で、夢の中にいるような瞑想感が漂う光り輝く作品には根強い人気がある。
Terri Weifenbach 写真
テリ・ワイフェンバックは、多くの写真家が「鮮明さ」や「意味の明確さ」を追求する中で、彼女は逆に「ぼけ」「あれ」「ピントの浅さ」「夢のような光のにじみ」を使って、「よく見えないこと」を価値あるものとして提示している。 これは、写真=記録メディアという常識に反する、とても珍しい立ち位置であるのでは。
彼女の作品は、あえてピントをぼかし、明瞭さを避けることで、視覚に「休息」や「余白」を与える。これは、情報過多で“見えすぎる”現代社会への批評的なまなざしといえる。
主なポイント
見ることの不確かさ:
はっきり見せないことで、感情や記憶を喚起する余白を持たせ、「見るとは何か」を問い直す。
視覚の休息:
即座に理解される画像に慣れた目に、沈黙や遅延を与える
視覚批評としての写真:
意味を押しつけず、見る側の自由や想像を開く写真は、現代社会によく見られる視覚をコントロールされる写真とは対照的なものとなる。
1. 不明瞭さを積極的に用いた視覚表現
ワイフェンバックは、ぼけ・にじみ・ピントの浅さなどを使い、「見えすぎない写真」を撮っている。これは、自身が注目している「あれ・ぶれ・ボケ」を写真の主題・手法として正面から扱っている点と重なる。
2. 「見ること」への問いかけ
彼女の写真は、即時的な理解を拒み、「これは何だろう?」「どう感じる?」と見ることの主体性や曖昧さを引き出す。自身の研究テーマも、「見ること」が常に明確で情報的であるべきだという前提に対して、不確かで揺らぐ視覚の価値を問おうとしている。
3. 「見えすぎる社会」への静かな批評性
SNSや広告のような鮮明で過剰な視覚情報とは対照的に、ワイフェンバックの写真は視覚に“休息”や“余白”を与える表現である。これは、自身のテーマにおける「現代社会への批評」としての視覚の在り方に、共通していると考える。
これらまとめた事項から、以前記述した失敗写真の美学や侘び寂び、あれブレボケに共通する部分があると気がついた。
1. 完璧さと不完全さ・無常
2. 対称と非対称・不均衡
3. 華美な素材と素朴な自然素材
4. 表層的装飾と内面的深み
5. 西洋における類似概念
つまり、欧米の美学が「見えるものの完璧さ」や「装飾性」を追い求める傾向にあるのに対し、侘び寂びは「見えない時間・心・無常」に美を見出す点が根本的に異なる。この違いは、失敗写真のような「偶発性・余白ある曖昧さ」を評価する視点と極めて親和性があると考える
1. 失敗写真の美学の動き
近年、SNS上で「#失敗写真」や「#全日本失敗写真協会」といったハッシュタグが注目を集めていた。意図しない結果として生まれた写真が、ユニークで魅力的な作品として共有され、多くの人々に楽しまれている。これにより、失敗写真が新たなアートフォームとして再評価される動きが広がっている。
2. アレブレボケと日本文化における不完全の美の関係性
日本の美学には、侘寂(わびさび)という概念がある。そもそも侘び寂びとは一つの言葉として役割をなしているように思えるが、本来『詫び』『寂び』の二つにわかれ個々で意味があるものであり、「わび」は、古語である「侘(わ)ぶ」という動詞に由来し、気落ちする、困惑する、辛く思う、寂しく思う、落ちぶれる。という劣った状態を表す否定的な言葉で、そこから転じて「質素で簡素な暮らしをする」という意味になった。また、「さび」も古語である「さ(寂)ぶ」という動詞からで、古くなる、色あせる、錆びる。という意味がある。時間の流れによる劣化や生命力がなくなっていく様子を表し、こちらもネガティブな意味合いを持つ言葉であり、それが転じて、古くなることで出てくる味わいや、朽ちていく様子に対して、美しいと感じる心に美を求めるのが「さび」の意味であり、由来だ。と下記サイトに記してある。これは、欠陥や不完全さ、儚さの中に美を見出す哲学である。例えば、壊れた陶器を金で修復する「金継ぎ」は、傷を隠すのではなく、あえて強調することで新たな美を創造する。また村田珠光(しゅこう)・武野紹鴎(たけのじょうおう)らによって作られた、簡素で静寂さを感じる道具を使って行う『侘び茶』。このような物を通じて心を映し出す静かな余白、見えていないものを自ら感じ取る価値観は、日本古来から続くものであり、失敗写真の美学とも通じるものがあると感じる。
3. 失敗写真の美学
現代アートの分野では、「失敗」を積極的に取り入れる動きがある。例えば、グリッチアートは、デジタル技術のエラーやバグを意図的に利用し、新たな美的価値を創出する表現手法である。このように敢えて正解とされる方に沿わずに崩して表現するアートも存在する。これは写真にも通づるものがあると考える。
グリッチアート
1. 感覚の「時間性」と「空間性」が補完し合う
2. 感情に直接働きかける感覚
3. 物語・意味・記憶を同時に喚起する
つまり、音楽が視覚情報に「物語」や「記憶の匂い」を付け加えるメディアとして機能する
4. 文化的学習による親和性の強化
5. 感情の翻訳装置としての音
ミシェル・シオン(Michel Chion)Audio-Vision: Sound on Screen(和訳)
最初カメラを持ったとき写真から始めたが写真だけでは物足りなくなって今度は映像を撮るようになった。そこで根本的に写真と映像では何が違うのか比較をしてみた。
| 写真 | 映像 | |
| 時間 | 一瞬を切り取る | 時間の流れを含む |
| 表現 | 静止画で構成 | 動き・音・編集が加わる |
| メディア | 1枚の画像(静止) | 動画(連続する画像+音声) |
| 体験 | 一瞬の「凝縮された情報」 | 時系列に沿った「展開」 |
| 機材や形式 | カメラ(スチル) | ビデオカメラ・スマホ・編集ソフトなど |
| 観賞方法 | 一目で全体を把握できる | 再生しながら理解する必要がある |
さらに堀り下げると…
写真と映像は同じカメラで撮影しても似て非なるものだと感じた。写真は一瞬を凝縮し、強い象徴性や感情のインパクトを生む力を持つ。一方で、被写体の動きや感情の変化、物語の展開といった「時間的側面」を伝えるには限界がある。この研究では、写真と映像の表現の差異を明確にしながら、「なぜ写真では済まないのか」という問いを通じて、映像メディアが果たす役割と可能性を検討する。
また、写真は『詩的』で映像は『音楽的』だとも感じた。
写真が詩的である理由は写真は瞬間を捉え詩もまた、言葉を通して瞬間や感情を表現するため、映像が音楽的である理由は、静止画とは異なり、時間の流れとともに変化する。音楽もまた、時間の流れとともに音やリズムが変化するため、映像との共通点が見られる。
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