History of Colorization of Black and White Photography
人類はこれまでに、白黒写真をアナログ・デジタルの両技術を駆使し色を付けた、いわゆる白黒写真カラー化の技術について数多くの挑戦を行ってきました。今日に至るまで、写真に直接絵具を塗る者、デジタルペイントで色を加える者。中には高度なテクノロジーを駆使して自動で色を表現する者も現れました。
このページでは、白黒写真カラー化に関する技術を含め、日本、世界の視点からカラー化技術誕生の歴史を交えながら解説して参ります。
近年、AIによる白黒写真の自動着彩技術がメディアによる報道で大きな話題になりました。2010年代は、世の中にとって「AI技術」の大きな進歩を遂げた時代です。自動運転システム、AI vs プロ囲碁棋士の対決、コンピュータとの会話などコンピュータ自身が考えて(決められた選択肢の中で)行動できるAI技術に世の中は釘付けになりました。
自動による白黒写真の着彩技術は、最近になって誕生しました。しかし、白黒写真をカラーにするという技術自体はなんとおよそ140年前には、既にあったことが確認されています。その技術が特に発展した国が実はここ、日本だったのです。
1850年代、ヨーロッパでは白黒写真に直接、絵具で色を塗ってカラー化する手彩色技術が広まったとされています。その後、1863年日本の神奈川府横浜町(現:神奈川県横浜市)に来日した、イギリス国籍の写真家:フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)によって、手彩色技術が日本に到来します。来日したベアトは、既に横浜で生活していた戦友の芸術家であるチャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman)と共に写真会社「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」を1864年に設立します。彼らは、日本の浮世絵からヒントを得て、水溶性顔料(水性絵具)を使い、白黒写真に直接着色する技術を生み出しました。
当時、1860年代の日本は、長い鎖国が終わり、ヨーロッパから輸入されてきたカメラや写真によって、それまで大衆の情景を描いてきた浮世絵が衰退の一歩を辿っていきました。時間やお金が掛かる浮世絵より、安く多く制作できる印刷技術によって浮世絵離れに拍車がかかったとされています。その為、多くの浮世絵の版画職人が失業する事態が起こってしまいました。そこでベアトは、絵具の知識や細密な技術を兼ね揃えていた元浮世絵(版画)職人らを雇い、手彩色技術を伝授しました。このことによって、日本に大量の手彩色写真が誕生するきっかけになります。因みに当時の日本の手彩色写真は、外国人旅行客を対象にした土産物として販売されていたため、国内ではなく海外からの注目を大きく集めました。
手彩色活動が順調であったベアト達でしたが開業から2年後の1866年に横浜で発生した大規模な火災(慶応の大火または、豚屋火事)によって今まで撮影してきたネガフィルムを含む、写真館を失ってしまいます。しかし、ベアトは諦めず、会社の再建に乗り出します。火災から3年後の1869年、再び横浜の地で写真会社「F. Beato & Co., Photographers」の立ち上げに成功し、外国人と日本人数名で会社を運営していたとされています。その内の一人、日下部金兵衛は、国内外から大きく注目を集める手彩色写真の写真家として、後の日本の写真業界に大きな影響を与える人物が働いていました。
明治維新によって大きく変わっていく日本。そんな激動の時代を彼らは、写真と手彩色で記録し続けました。次第に日本では、日下部金兵衛、玉村康三郎、鈴木真一、小川一真、内田九一、横山松三郎、アドルフォ・ファルサーリらなどの手彩色写真を制作する写真家が多く見られるようになります。そんな中、1877年オーストリアの写真家ライムント・フォン・シュティルフリート男爵(Raimund Freiherr von Stillfried)によってベアトの会社は買収され、写真会社「Stillfried & Andersen(Japan Photographic Association:日本写真社)」になります。その後も買収は続き、最終的には、ベアトの弟子であった日下部金兵衛が会社を引き継ぎます。
1900年に入ると日本は、「私製はがき」の使用を認可します。それまで、大日本帝國の管轄下であった郵便役所(現:日本郵便)が生産している「官製はがき」でなければ使用できない制限がありました。そのため、「私製はがき」を認可することで民間の印刷会社などが制作した自由なデザイン(規定をクリアした)のはがきを購入・使用できるようになります。これによって、海外旅行者のお土産向けに販売していた手彩色写真を絵葉書(手彩色絵葉書を含む)として日本国内の大衆にも楽しまれるようになる取り組みが盛んに行われました。特に拍車が掛かった出来事が1904年日露戦争。開戦の記念絵葉書が一大ブームになり、絵葉書(手彩色絵葉書を含む)が庶民に浸透していったとされています。
日本では、絵葉書が脚光を浴びていましたが一方アメリカでは、牧師兼芸術家のウォレス・ナッティング(Wallace Nutting)の手彩色写真が注目されていました。1904年にニューヨークで写真スタジオを開業したナッティングは、多くの手彩色写真を制作し、販売しました。写真の多くが自然豊かで美しいアメリカの郊外やニューイングランドなどを写した写真がほとんどです。ナッティングは、35年間もの長い時間を手彩色写真の制作に費やしました。
1915年に入ると、アメリカ、カナダなどの北米で日本と同様に手彩色写真型のポストカード(ギフトカード、お土産)として大衆の生活に浸透していきます。しかし、1929年に起こった世界恐慌の影響で手彩色写真を含むポストカードは、生産されなくなり、劇的に減少していきます。手彩色写真が大衆の生活から離れていく中、芸術家の中ではまだ灯火は消えていません。1930年代に入るとドイツ人人形作家ハンス・ベルメール(Hans Bellmer)が自身の作品を写した白黒写真に筆で色を塗った手彩色写真を制作し始めます。この他にも写真家ルイス・マルケス(Luis Márquez)も行動に出ます。マルケスは、出身地であるメキシコを中心に活動し、先住民族を映した写真の着彩を主に行っていきました。
世界中にカラーフィルムが生産され始めた1950年代。手彩色写真の生産は、ぽつりと止まってしまいます。日本では、1964年開催の東京オリンピックを期に高所得層からカラー写真文化が広がります。1970年代に入ってからやっと庶民生活にもカラー写真が生活に溶け込み始めます。海外や日本でもカラーフィルムによるカラー写真ブームが到来し、世界規模で手彩色写真文化が衰退します。しかし、芸術家を中心に再び再燃します。1970年代以降、ロビン・レニー・ヒクス(Robin Renee Hix)、エリザベス・レナード(Elizabeth Lennard)、チェコの写真家ヤン・ソーデック(Jan Saudek)、リタ・ディベート(Rita Dibert)など芸術に特化した手彩色写真作品が世の中に出回るようになります。これまで、日常非日常に関わらず、移り変わる時代の流れを記録してきた手彩色写真でしたが美を創作する芸術的な役割に置き換わった瞬間でした。
2000年代に突入するとコンピュータが劇的に進化を遂げ、私たちの生活には、パソコンとして身近な存在になります。紙媒体であった写真もデータに変わり、画像として劣化せず永遠に保存できるようになっていきました。アメリカのソフトウェア開発会社「Adobe」が販売した写真編集ソフトウェア「Photoshop」シリーズは、これまで困難を極めた高度な写真の編集ができるだけではなく簡単にデジタル上でイラストやデザインを制作できるなどクリエイターにとって大きな革命が起こりました。「Photoshop」が登場してから手彩色写真も作業工程がデジタルに移り変わります。スキャナーを使って白黒写真を画像として取り込み、「Photoshop」で設定を変えるなどし、デジタル上で着彩する方法が確立されました。絵具を使って着彩する従来の方法では、塗り間違えなどの一度失敗してしまうと原状に戻すことが困難でしたが、コンピュータが一つ一つの作業工程を保存できるため、塗り間違えた場合は、その前に戻るか塗増し部分だけを消すことができるなど効率化します。2002年のPhotoshop 7.0の新モデル版で修復ブラシツール機能が追加され、破損した写真の修復をデジタル上で行うことも可能になりました。
2010年代は、AI技術に関する多くの研究が盛んにおこなわれるようになります。2010年、米国のIT企業「Google」が自動車の自動運転の研究を行なったり、2015年には、英国のDeepMind社が深層学習という新たなAI技術を見つけ、それを取り入れたAI「AlphaGo」は、プロの囲碁棋士と対決し、AIが勝利しました。このように世間は空前の第3次AIブームが到来します。
2016年に入ると、ディープラーニングを取り入れたAI技術による白黒写真の自動着彩技術が誕生しました。アメリカではコーネル大学が、日本では早稲田大学と筑波大学がそれぞれ研究方法や着彩までの技術的解説と着彩結果を掲載した論文を発表し、世界から注目を浴びます。東京大学では、この技術を使い、「記憶の解凍」プロジェクトと称して広島市の戦前、戦中の白黒写真をカラーにして記録を残す取り組みを行ないました。因みにAIで着彩された写真は、彩度が高く色鮮やかに着彩されることが多くみられた。後にAIの自動着彩では、人工物や自然物によって着彩の得意不得意が出ることが明らかになります。自然物には、絶対的な色があり、空・海=青、草=緑など特殊な物体ではない限り他の色に変わることはありえません。しかし、車のボディーや服の色など、複数色のパターンがある人工物は、直接のその場で見たり、当時を生きた方々に話を聞かないと色を表現することは難しかったようです。
今日に至るまで、WEB上では、数多くのAI技術を使って自動で白黒写真を着彩するサービスが公開されています。中には、研究者ではない一般人が制作した物もあり、商用化して販売している会社も見られます。YouTubeでは、「100年前の日本人の笑顔【カラー化・高画質化】」や「Elders React To Seeing Their Black And White Photos In Color For The First Time」など白黒写真カラー化に対して世間の反応を楽しむ紹介動画も登場しました。
2021年の現在、AIに関する報道が少しずつ減っていき第3次AIブームが静かに去っていっているような雰囲気が漂っています。おそらく、第4次AIブームが到来する頃にはAIの着彩技術が上がり、より自然に、より正確に、色を再現できているかもしれませんね。
1892年の消費者物価指数から紐解くと、1銭=現代の約20円、日本酒1升=15円(約300円)が相場でした。
当時の価格を現代の価格に直すと以下のようになります。
現代は、コンピュータを用いての修復と着彩が主流になっています。
大手カメラメーカーや小規模写真館が事業を展開している模様です。
白黒写真でありながら単色の線やドットの交差によってカラー写真に見える錯視です。発見したØyvind Kolåsさんは、ムンカー錯視に影響を受けたとコメントしています。
カラー写真の全ての色を反対色に変換し、中心部分を10秒間凝視。その後、元写真を白黒に変換した写真を見ると約3〜10秒間だけ、カラー写真に見える錯視。