デザイン総合研究 I
青木暁光
研究テーマ
研究テーマ
不鮮明のデザイン──過剰可視化社会における写真的批評
研究背景・目的
近年、デジタル技術やSNSの発展により、写真は極めて鮮明かつ即時的に生成・共有されることが常態化している。監視カメラや顔認識技術に代表されるように、「見えること」「判別できること」が社会的な規範や安全装置として機能する一方で、過剰な可視化はプライバシーの侵害や主体の固定化といった問題を孕む。
こうした状況の中で、写真における「あれ・ぶれ・ボケ」といった“不鮮明さ”は、従来「失敗」とみなされることが多かったが、近年はむしろ 情報過多の時代におけるノイズやアンチテーゼとして注目されている(例:ブレによる主体の揺らぎの表現、ボケによる視覚的余白、ノイズの持つ異化効果)。歴史的に見ても、シュルレアリスム写真や実験的映像において「不鮮明さ」は夢や無意識、主体の変容を表現する手法として用いられてきた。現代においても、鮮明さや高解像度を至上とする社会的な圧力に対し、敢えて“不鮮明”を導入することは、社会への批評的介入の可能性を持つ。
本研究の目的は、写真における「あれ・ぶれ・ボケ・ノイズ」といった不鮮明さを意図的に用い、過剰な可視化社会に対抗し得る「写真的批評」の可能性を探究することである。
具体的に
- 写真史および現代の写真作品において、不鮮明さがどのように表現的・批評的機能を果たしてきたかを整理する。
- 自身の写真制作において「あれ・ぶれ・ボケ・ノイズ」を積極的に導入し、その批評性や自己変容的契機を検証する。
- これらの分析を通じて、過剰可視化社会において写真が担いうる新たな批評的役割を明らかにする。
Fragment
- 海外ないし日本では古今東西美しいと思ったものを何かしらの形でアウトプットされてきている。主に平安時代であれば和歌、江戸時代には浮世絵であったりなどといった美しいと思ったものを何かしらの形で表現される事が常である。これらのように現代では主にカメラやスマートフォンで美しいと思ったものにシャッターを切りSNSへ投稿することが日常になった。しかし一貫して何気なく綺麗だと思ったものを何気なく形にするというプロセスを描くこの行動原理に対して疑問を抱いたのがきっかけ。
- シニフィアン、シニフィエ
研究テーマ候補
- 日常風景の美的価値とその記録行動に関する一考察
- 身近な景色を記録する動機と表現意識の変容
- 「映え」から「私的視点」へ:個人の映像記録に見る日常美の再発見
- 都市生活者における写真表現と日常空間の再解釈
- 写真による日常の一回性の記録
- 私的空間における美意識の変容
- 「そこにある光」を撮るという行為の意味論
- 「日常を切り取る」衝動の源泉を探る
- 私の世界を映す:身近な景色が美しく見える理由
- レンズ越しの心の記録
- 写真による日常風景の再構築
参考文献
中井正一「現代美学の危機と映画理論」
ロランバルト「明るい部屋」
スーザン・ソンタグ「写真論」
日本の美意識」の源流としての『神道的自然観』と『無常』
成果物の仕様
2025.07.15
Terri Weifenbachについて
ワイフェンバックは、日常にある何気ない自然風景のカラー作品で知られる写真家。ピンボケ画面の中にシャープにピントがあった部分が存在する抽象画のような写真が特徴で、夢の中にいるような瞑想感が漂う光り輝く作品には根強い人気がある。
Terri Weifenbach 写真
Terri Weifenbachについての考察
テリ・ワイフェンバックは、多くの写真家が「鮮明さ」や「意味の明確さ」を追求する中で、彼女は逆に「ぼけ」「あれ」「ピントの浅さ」「夢のような光のにじみ」を使って、「よく見えないこと」を価値あるものとして提示している。 これは、写真=記録メディアという常識に反する、とても珍しい立ち位置であるのでは。
彼女の作品は、あえてピントをぼかし、明瞭さを避けることで、視覚に「休息」や「余白」を与える。これは、情報過多で“見えすぎる”現代社会への批評的なまなざしといえる。
主なポイント
見ることの不確かさ:
はっきり見せないことで、感情や記憶を喚起する余白を持たせ、「見るとは何か」を問い直す。
視覚の休息:
即座に理解される画像に慣れた目に、沈黙や遅延を与える
視覚批評としての写真:
意味を押しつけず、見る側の自由や想像を開く写真は、現代社会によく見られる視覚をコントロールされる写真とは対照的なものとなる。
研究テーマにどのような親和性があるのか
1. 不明瞭さを積極的に用いた視覚表現
ワイフェンバックは、ぼけ・にじみ・ピントの浅さなどを使い、「見えすぎない写真」を撮っている。これは、自身が注目している「あれ・ぶれ・ボケ」を写真の主題・手法として正面から扱っている点と重なる。
2. 「見ること」への問いかけ
彼女の写真は、即時的な理解を拒み、「これは何だろう?」「どう感じる?」と見ることの主体性や曖昧さを引き出す。自身の研究テーマも、「見ること」が常に明確で情報的であるべきだという前提に対して、不確かで揺らぐ視覚の価値を問おうとしている。
3. 「見えすぎる社会」への静かな批評性
SNSや広告のような鮮明で過剰な視覚情報とは対照的に、ワイフェンバックの写真は視覚に“休息”や“余白”を与える表現である。これは、自身のテーマにおける「現代社会への批評」としての視覚の在り方に、共通していると考える。
これらまとめた事項から、以前記述した失敗写真の美学や侘び寂び、あれブレボケに共通する部分があると気がついた。
2025.07.08
侘び寂びから見る欧米諸国との美の差
1. 完璧さと不完全さ・無常
- 欧米では、対称性、完成度、若さ、美しさの永続性などが理想とされる傾向にある。
西洋→自然は人間が支配すべきもの
東洋→自然は「人間と調和するもの」
- 侘び寂びでは、むしろ「不完全であること」「時間の流れによる変化」が美しさの本質とされる。瑕(きず)やヒビ、古びた質感にこそ味わいがあるとされる。
REFINED JAPAN
2. 対称と非対称・不均衡
- 西洋美術では、数学的均衡や左右対称が美意識として重視される傾向にある。
- 対して侘び寂び(特に禅の原理)では非対称(不均整)**がむしろ調和や自然の摂理に近いと考えられる。
- 上記二つの例としてフラワーアレンジメントと生け花に見る文化的違いがある、欧米は自然界における完璧なバランスと対称性を模倣することが、美の究極の形とされている。この伝統は、現代のフラワーアレンジメントにおいても引き継がれており、対称的なデザインとすることで、バランスと調和の追求がなされている。それに対照的で日本の生花は非対称性を通じた自然への敬意をはらっている。非対称性は、生け花において自然への深い敬意を示し、自然界の多様性と豊かさを称え、見る人に自然界との一体感を感じさせることを目的としている。
対称vs非対称:フラワーデザインにおける西洋と日本の文化比較
3. 華美な素材と素朴な自然素材
4. 表層的装飾と内面的深み
5. 西洋における類似概念
- ヴィンテージ、インダストリアル、グランジなどが「不完全さ」や「使い古された味わい」を取り入れているが、これは侘び寂びそのものではなく、西洋的文脈で解釈されたスタイルである 。
- 一方で、北欧のヒュッゲ(hygge)は「居心地の良い生活」を目指す点で近い部分が見られるが、侘び寂びのような「禅的精神」や「時間の深み」は希薄である 。
海外のインテリアトレンド Japandi style(ジャパンディスタイル)とは?
つまり、欧米の美学が「見えるものの完璧さ」や「装飾性」を追い求める傾向にあるのに対し、侘び寂びは「見えない時間・心・無常」に美を見出す点が根本的に異なる。この違いは、失敗写真のような「偶発性・余白ある曖昧さ」を評価する視点と極めて親和性があると考える
2025.06.24
アレブレボケについて再調査
1. 失敗写真の美学の動き
近年、SNS上で「#失敗写真」や「#全日本失敗写真協会」といったハッシュタグが注目を集めていた。意図しない結果として生まれた写真が、ユニークで魅力的な作品として共有され、多くの人々に楽しまれている。これにより、失敗写真が新たなアートフォームとして再評価される動きが広がっている。
2. アレブレボケと日本文化における不完全の美の関係性
日本の美学には、侘寂(わびさび)という概念がある。そもそも侘び寂びとは一つの言葉として役割をなしているように思えるが、本来『詫び』『寂び』の二つにわかれ個々で意味があるものであり、「わび」は、古語である「侘(わ)ぶ」という動詞に由来し、気落ちする、困惑する、辛く思う、寂しく思う、落ちぶれる。という劣った状態を表す否定的な言葉で、そこから転じて「質素で簡素な暮らしをする」という意味になった。また、「さび」も古語である「さ(寂)ぶ」という動詞からで、古くなる、色あせる、錆びる。という意味がある。時間の流れによる劣化や生命力がなくなっていく様子を表し、こちらもネガティブな意味合いを持つ言葉であり、それが転じて、古くなることで出てくる味わいや、朽ちていく様子に対して、美しいと感じる心に美を求めるのが「さび」の意味であり、由来だ。と下記サイトに記してある。これは、欠陥や不完全さ、儚さの中に美を見出す哲学である。例えば、壊れた陶器を金で修復する「金継ぎ」は、傷を隠すのではなく、あえて強調することで新たな美を創造する。また村田珠光(しゅこう)・武野紹鴎(たけのじょうおう)らによって作られた、簡素で静寂さを感じる道具を使って行う『侘び茶』。このような物を通じて心を映し出す静かな余白、見えていないものを自ら感じ取る価値観は、日本古来から続くものであり、失敗写真の美学とも通じるものがあると感じる。
3. 失敗写真の美学
現代アートの分野では、「失敗」を積極的に取り入れる動きがある。例えば、グリッチアートは、デジタル技術のエラーやバグを意図的に利用し、新たな美的価値を創出する表現手法である。このように敢えて正解とされる方に沿わずに崩して表現するアートも存在する。これは写真にも通づるものがあると考える。
グリッチアート
2025.06.10
なぜ写真映像と音楽は親和性があるのか?
1. 感覚の「時間性」と「空間性」が補完し合う
- 映像・写真:視覚
写真:瞬間的なもの
映像:空間+時間の流れを持つ
- 音楽:聴覚メディア
基本的に「時間」を含むメディア(音が時間を刻む)
→そのため写真や映像に音楽が加わると『時間的な感情の流れ』ができる。
静的な写真であっても音楽が加わると『物語』や『気持ち』が生まれる
2. 感情に直接働きかける感覚
- 音楽は抽象的なのに、感情に直接訴えかける力がある
明るい・切ない・不穏・懐かしい…など、具体的に何を表していなくても感情を揺さぶる
- 映像や写真は具体的な視覚情報だが、それ自体では感情が曖昧なことがある
→ 音楽が「感情のナビ」として視覚に意味を与える
3. 物語・意味・記憶を同時に喚起する
- 多くの人が、「音楽と映像の組み合わせ」によって記憶や物語を感じる
- 映画のワンシーンの感動は、音楽がなければ半減することが多い
- ミュージックビデオでも、映像だけでなく音楽がその世界観を「作っている」
つまり、音楽が視覚情報に「物語」や「記憶の匂い」を付け加えるメディアとして機能する
4. 文化的学習による親和性の強化
- 映像と音楽がセットで使われる場面が、私たちの身の回りにあふれている
- 映画、ドラマ、CM、MV、SNS動画… ほとんどが「音+映像」で構成されている
→ 視覚と音の同時体験に慣れている自分たちの脳は、それを「自然な組み合わせ」として認識している。即ち音楽と映像との親和性が学習されている
5. 感情の翻訳装置としての音
- 音楽はそこに一つの「読み取り方」=解釈のヒントを与える
→ 音楽は視覚情報に対して「こう見てほしい」というメタファー(比喩)」を与える
上に記している写真や映像に音楽が及ぼす影響は逆もまた然りであり、相互に作用している。
参考文献
ミシェル・シオン(Michel Chion)Audio-Vision: Sound on Screen(和訳)
2025.06.03
写真と映像の違いとは
最初カメラを持ったとき写真から始めたが写真だけでは物足りなくなって今度は映像を撮るようになった。そこで根本的に写真と映像では何が違うのか比較をしてみた。
| 写真 | 映像 |
| 時間 | 一瞬を切り取る | 時間の流れを含む |
| 表現 | 静止画で構成 | 動き・音・編集が加わる |
| メディア | 1枚の画像(静止) | 動画(連続する画像+音声) |
| 体験 | 一瞬の「凝縮された情報」 | 時系列に沿った「展開」 |
| 機材や形式 | カメラ(スチル) | ビデオカメラ・スマホ・編集ソフトなど |
| 観賞方法 | 一目で全体を把握できる | 再生しながら理解する必要がある |
さらに堀り下げると…
写真
『一瞬の凝縮』
写真は「シャッターを切った一瞬」を永続させる。この時間の停止が写真の特権であり、そこに象徴性や詩的な読解可能性が誕生する。
- 写真は、現実の一部分を切り取ることで、かえって想像を広げる。
- 空気感があっても、それは鑑賞者の記憶や感覚によって「想起」されるもの。
映像
『空気ごと時間を“保持”する』
映像には、時間の流れ・温度・光の変化・音・動作・感情の揺れといった要素が含まれる。それにより、ただの“視覚情報”にとどまらず、その場の「空気ごと保存する」ような力がある。
- カメラがパンすることで、空間の広がりが伝わる。
- 俳優の目線、呼吸、ため息、沈黙の「長さ」が場の空気を支配する。
- 音や時間によって、記録が“記憶”になる。
比較してみて
写真と映像は同じカメラで撮影しても似て非なるものだと感じた。写真は一瞬を凝縮し、強い象徴性や感情のインパクトを生む力を持つ。一方で、被写体の動きや感情の変化、物語の展開といった「時間的側面」を伝えるには限界がある。この研究では、写真と映像の表現の差異を明確にしながら、「なぜ写真では済まないのか」という問いを通じて、映像メディアが果たす役割と可能性を検討する。
また、写真は『詩的』で映像は『音楽的』だとも感じた。
写真が詩的である理由は写真は瞬間を捉え詩もまた、言葉を通して瞬間や感情を表現するため、映像が音楽的である理由は、静止画とは異なり、時間の流れとともに変化する。音楽もまた、時間の流れとともに音やリズムが変化するため、映像との共通点が見られる。
Fragment
- アレブレボケについて
現代はSNSや監視カメラ、4K・8K映像など、現代はあらゆるものが「鮮明に」「正確に」「過剰に」見えてしまう社会である。
でも人間の知覚は本来もっと不完全で、「揺らぎ」「誤解」「錯覚」「余白」が含まれている。
だからこそ、“見えないもの”があることで、見えているものに深みが生まれると感じる。
- 写真は先入観を含んでみることで楽しんでいる?
2025.05.26
Fragment
- 言語化するのはアナログデータをデジタルデータに変換するようなもので曖昧な概念を離散させて段階的にさせるもの
- 写真は言語化から対極に存在するもの
- 時代ごとに写真が持つ役割とは?
「記録から記憶へ」写真が紡ぐ家族史 ー 家族アルバムの役割と意義 ー
上記サイトでは時代の変容による写真が担う役割の変化について書かれている。簡単にすると『写真は家族の記録や思い出を残す大切な手段であり、特にアルバムは家族の歴史やつながりを感じさせるもの。昔は紙のアルバムが主流だったが、今はデジタルでも残せる。写真は「記録」が「記憶」となり、人の心を支える力がある。』
写真は本質的に記録するものとして機能しているが、アルバムなどを見ていると「記録」のような側面ではなく思い出という要素が加わり「記憶」として懐かしんでいると自身の体験から強く感じる
それに比べ、特に今の時代においてはスマートフォンやデジカメで撮影するようになり、写真というものはかなり個人的なものになってきているのに加え何かしらの形にするのではなく電子媒体に蓄積されていき形にする際に付随する懐かしむという心の動きが比較的に少なくなっているのではと感じた。
- 写真と映像を主に研究しようとしていたが写真一本に絞り、瞬間を捉え画にするという映像とは違った考え方を持った写真を研究していきたい。
2025.05.20
デザイン的視点から見る写真の一回性の記録の研究テーマ案
2025.05.13
興味の洗い出し
写真や映像を残したくなるのはなぜ?
⇩
- 無常感と無常観が写真に影響を及ぼしているのでは?
無常感と無常観01
無常感と無常観02
『無常』の「常」とは、「常にそのまま」ということ、それに「無」がつくと、「常にそのままで無い」となるので「変化する」ということ。
常に同じのものは無いからこそそれを残して懐しんで、愛でたいから撮りたいという欲求を喚起しているのでは。
- 映る人たちそれぞれに存在する日常を映像や写真に納めたい
- 東京会議(小山薫堂出演の番組)
写真部の回、小山薫堂/松任谷正隆/ハービー・山口/藤堂正寛が出演しておりそれぞれ海外や身近なところに赴きスナップを撮って評価し合うという番組を見て改めて散歩や遠出をし、写真を撮ることがどんなに大切か認識させられた。
2025.4.22
Fragment
- 海外ないし日本では古今東西美しいと思ったものを何かしらの形でアウトプットされてきている。主に平安時代であれば和歌、江戸時代には浮世絵であったりなどといった美しいと思ったものを何かしらの形で表現される事が常である。これらのように現代では主にカメラやスマートフォンで美しいと思ったものにシャッターを切りSNSへ投稿することが日常になった。しかし一貫して何気なく綺麗だと思ったものを何気なく形にするというプロセスを描くこの行動原理に対して疑問を抱いた。
- 元来、なぜ人は感動したものを形として残したくなる心理になるのか
- まずは自分の撮った写真に対しなぜ美しいと思ったかの言語化が必要?
日本の美意識」の源流としての『神道的自然観』と『無常』