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青木暁光/デザイン総合研究I のバックアップ(No.20)


デザイン総合研究 I

青木暁光


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研究テーマ


研究テーマ


記録は誰のためのデザインか、写真・映像における一回性の記録と撮影者の自己変容



研究背景・目的

自身は趣味で写真や映像を古い方式のレンズで撮ったりしている。昨今の世の中では「映え」「エモい」などを意識してSNSで話題になった各観光スポット、カフェやレストランに赴きバズっていた投稿とほぼ同じ構図で撮影して投稿される。といったことを自分自身のSNSを通して散見される。また自身も始めたての頃は観光地に赴き投稿されたものと同じ構図で切り抜き投稿していた。しかし、数年前に某感染症の流行により外出の自粛やリモートでの授業参加を余儀なくされた。それにより遠方に赴き写真や映像を撮ることができなくなってしまい、他にできることはないのか探した結果毎日家の周囲をカメラを持って散歩するようになり、普段何気なく歩いている道路や川沿いの道にはたくさん綺麗な景色が広がっていることに気がついた。それらは観光地や映えスポットと称されるものに引けを取らないと感じている。また、自身の名前には太陽にちなんだ暁、光と言う漢字が入っている。幼少期から光が照る下で生きているもの動くものやましてやその光を発する天体にのめり込んだ。光や水は一様にして刹那的に違った表情を見せ、二度とそれとは出会えない一回性のものである。また、日常の一回性の記録は、撮影者にとって「観察」と「構成」の訓練の場であると同時に、「自己と時間との関係をデザインする行為」ともいえる。そのため本研究では、デザイン的視点から、日常の中に潜む一回性の瞬間をどのように見つけ、構成し、意味化するかを探りながら、撮影者自身の視覚的変容や心理的影響を明らかにしていく。


Fragment


研究テーマ候補

参考文献

中井正一「現代美学の危機と映画理論」
ロランバルト「明るい部屋」
スーザン・ソンタグ「写真論」
日本の美意識」の源流としての『神道的自然観』と『無常』

成果物の仕様


2025.07.15


Terri Weifenbachについて

 ワイフェンバックは、日常にある何気ない自然風景のカラー作品で知られる写真家。ピンボケ画面の中にシャープにピントがあった部分が存在する抽象画のような写真が特徴で、夢の中にいるような瞑想感が漂う光り輝く作品には根強い人気がある。
Terri Weifenbach 写真



Terri Weifenbachについての考察

 テリ・ワイフェンバックは、多くの写真家が「鮮明さ」や「意味の明確さ」を追求する中で、彼女は逆に「ぼけ」「あれ」「ピントの浅さ」「夢のような光のにじみ」を使って、「よく見えないこと」を価値あるものとして提示している。 これは、写真=記録メディアという常識に反する、とても珍しい立ち位置であるのでは。
 彼女の作品は、あえてピントをぼかし、明瞭さを避けることで、視覚に「休息」や「余白」を与える。これは、情報過多で“見えすぎる”現代社会への批評的なまなざしといえる。

主なポイント
見ることの不確かさ:
 はっきり見せないことで、感情や記憶を喚起する余白を持たせ、「見るとは何か」を問い直す。

視覚の休息:
 即座に理解される画像に慣れた目に、沈黙や遅延を与える

視覚批評としての写真:
 意味を押しつけず、見る側の自由や想像を開く写真は、現代社会によく見られる視覚をコントロールされる写真とは対照的なものとなる。



研究テーマにどのような親和性があるのか

1. 不明瞭さを積極的に用いた視覚表現
ワイフェンバックは、ぼけ・にじみ・ピントの浅さなどを使い、「見えすぎない写真」を撮っている。これは、自身が注目している「あれ・ぶれ・ボケ」を写真の主題・手法として正面から扱っている点と重なる。

2. 「見ること」への問いかけ
彼女の写真は、即時的な理解を拒み、「これは何だろう?」「どう感じる?」と見ることの主体性や曖昧さを引き出す。自身の研究テーマも、「見ること」が常に明確で情報的であるべきだという前提に対して、不確かで揺らぐ視覚の価値を問おうとしている。

3. 「見えすぎる社会」への静かな批評性
SNSや広告のような鮮明で過剰な視覚情報とは対照的に、ワイフェンバックの写真は視覚に“休息”や“余白”を与える表現である。これは、自身のテーマにおける「現代社会への批評」としての視覚の在り方に、共通していると考える。


これらまとめた事項から、以前記述した失敗写真の美学や侘び寂び、あれブレボケに共通する部分があると気がついた。



2025.07.08

侘び寂びから見る欧米諸国との美の差

1. 完璧さと不完全さ・無常

2. 対称と非対称・不均衡

3. 華美な素材と素朴な自然素材

4. 表層的装飾と内面的深み

5. 西洋における類似概念

つまり、欧米の美学が「見えるものの完璧さ」や「装飾性」を追い求める傾向にあるのに対し、侘び寂びは「見えない時間・心・無常」に美を見出す点が根本的に異なる。この違いは、失敗写真のような「偶発性・余白ある曖昧さ」を評価する視点と極めて親和性があると考える

2025.06.24

アレブレボケについて再調査

1. 失敗写真の美学の動き
近年、SNS上で「#失敗写真」や「#全日本失敗写真協会」といったハッシュタグが注目を集めていた。意図しない結果として生まれた写真が、ユニークで魅力的な作品として共有され、多くの人々に楽しまれている。これにより、失敗写真が新たなアートフォームとして再評価される動きが広がっている。

2. アレブレボケと日本文化における不完全の美の関係性
日本の美学には、侘寂(わびさび)という概念がある。そもそも侘び寂びとは一つの言葉として役割をなしているように思えるが、本来『詫び』『寂び』の二つにわかれ個々で意味があるものであり、「わび」は、古語である「侘(わ)ぶ」という動詞に由来し、気落ちする、困惑する、辛く思う、寂しく思う、落ちぶれる。という劣った状態を表す否定的な言葉で、そこから転じて「質素で簡素な暮らしをする」という意味になった。また、「さび」も古語である「さ(寂)ぶ」という動詞からで、古くなる、色あせる、錆びる。という意味がある。時間の流れによる劣化や生命力がなくなっていく様子を表し、こちらもネガティブな意味合いを持つ言葉であり、それが転じて、古くなることで出てくる味わいや、朽ちていく様子に対して、美しいと感じる心に美を求めるのが「さび」の意味であり、由来だ。と下記サイトに記してある。これは、欠陥や不完全さ、儚さの中に美を見出す哲学である。例えば、壊れた陶器を金で修復する「金継ぎ」は、傷を隠すのではなく、あえて強調することで新たな美を創造する。また村田珠光(しゅこう)・武野紹鴎(たけのじょうおう)らによって作られた、簡素で静寂さを感じる道具を使って行う『侘び茶』。このような物を通じて心を映し出す静かな余白、見えていないものを自ら感じ取る価値観は、日本古来から続くものであり、失敗写真の美学とも通じるものがあると感じる。

3. 失敗写真の美学
現代アートの分野では、「失敗」を積極的に取り入れる動きがある。例えば、グリッチアートは、デジタル技術のエラーやバグを意図的に利用し、新たな美的価値を創出する表現手法である。このように敢えて正解とされる方に沿わずに崩して表現するアートも存在する。これは写真にも通づるものがあると考える。
グリッチアート

2025.06.10

なぜ写真映像と音楽は親和性があるのか?

1. 感覚の「時間性」と「空間性」が補完し合う

2. 感情に直接働きかける感覚

3. 物語・意味・記憶を同時に喚起する

つまり、音楽が視覚情報に「物語」や「記憶の匂い」を付け加えるメディアとして機能する

4. 文化的学習による親和性の強化

5. 感情の翻訳装置としての音

参考文献

ミシェル・シオン(Michel Chion)Audio-Vision: Sound on Screen(和訳)



2025.06.03

写真と映像の違いとは

最初カメラを持ったとき写真から始めたが写真だけでは物足りなくなって今度は映像を撮るようになった。そこで根本的に写真と映像では何が違うのか比較をしてみた。

写真映像
時間一瞬を切り取る時間の流れを含む
表現静止画で構成動き・音・編集が加わる
メディア1枚の画像(静止)動画(連続する画像+音声)
体験一瞬の「凝縮された情報」時系列に沿った「展開」
機材や形式カメラ(スチル)ビデオカメラ・スマホ・編集ソフトなど
観賞方法一目で全体を把握できる再生しながら理解する必要がある

さらに堀り下げると…

写真

『一瞬の凝縮』
写真は「シャッターを切った一瞬」を永続させる。この時間の停止が写真の特権であり、そこに象徴性や詩的な読解可能性が誕生する。

映像

『空気ごと時間を“保持”する』
映像には、時間の流れ・温度・光の変化・音・動作・感情の揺れといった要素が含まれる。それにより、ただの“視覚情報”にとどまらず、その場の「空気ごと保存する」ような力がある。

比較してみて

写真と映像は同じカメラで撮影しても似て非なるものだと感じた。写真は一瞬を凝縮し、強い象徴性や感情のインパクトを生む力を持つ。一方で、被写体の動きや感情の変化、物語の展開といった「時間的側面」を伝えるには限界がある。この研究では、写真と映像の表現の差異を明確にしながら、「なぜ写真では済まないのか」という問いを通じて、映像メディアが果たす役割と可能性を検討する。
また、写真は『詩的』で映像は『音楽的』だとも感じた。
写真が詩的である理由は写真は瞬間を捉え詩もまた、言葉を通して瞬間や感情を表現するため、映像が音楽的である理由は、静止画とは異なり、時間の流れとともに変化する。音楽もまた、時間の流れとともに音やリズムが変化するため、映像との共通点が見られる。

Fragment

2025.05.26

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2025.05.20

デザイン的視点から見る写真の一回性の記録の研究テーマ案


2025.05.13

興味の洗い出し

写真や映像を残したくなるのはなぜ?

         ⇩

2025.4.22

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