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伊藤晃生/白黒写真カラー化史 のバックアップ(No.14)


白黒写真カラー化史

History of Coloring Black and White Photography


人類はこれまでに、白黒写真をアナログ・デジタルの両技術を駆使し色を付けた、いわゆる白黒写真カラー化の技術について数多くの挑戦を行ってきました。今日に至るまで、写真に直接絵具を塗る者、デジタルペイントで色を加える者。中には高度なテクノロジーを駆使して自動で色を表現する者も現れました。
このページでは、白黒写真カラー化に関する技術を含め、日本、世界の視点からカラー化技術誕生の歴史を交えながら解説して参ります。

目次




これまでの白黒写真カラー化

近年、AIによる白黒写真の自動着彩技術がメディアによる報道で大きな話題に上がりました。報道されはじめた2010年代は、世の中にとって「AI技術」の大きな進歩を遂げた時代です。自動運転システム、AI vs プロ囲碁棋士の対決、コンピュータとの会話などコンピュータ自身が考え行動できるAI技術に世の中は釘付けになりました。
自動での着彩技術は最近誕生した物ですが実は、白黒写真をカラーにするという技術自体はなんとおよそ140年前には、既にあったことが確認されています。その技術が特に発展した国が実はここ、日本なのです。



歴史


1800年代

Felice Beato

 1840年代、ヨーロッパでは白黒写真に顔料とアラビアゴムなどを使って直接色を塗ってカラー化する手彩色技術が広まりました。その後、1863年日本の神奈川府横浜町(現:神奈川県横浜市)に来日した、イギリスの写真家:フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)によって、手彩色技術が日本に到来します。来日したベアトは、既に横浜で生活していた戦友の芸術家であるチャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman)と共に写真会社「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」を1864年に設立します。彼らは、日本の浮世絵からヒントを得て、水溶性顔料(水彩絵具)を使い、白黒写真に直接着色する技術を生み出しました。

Samurai of the Chosyu clan

 当時、1860年代の日本は、長い鎖国が終わり、ヨーロッパから輸入されてきたカメラや写真によって、それまで大衆の情景を描かれてきた浮世絵が衰退の一歩を辿っていきました。時間やお金が掛かる版画より、安く多く制作できる印刷技術によって浮世絵離れに拍車がかかったとされています。その為、多くの浮世絵の版画職人が失業する事態が起こってしまいます。そこでベアトは、絵具の知識や細密な技術を兼ね揃えていた元版画職人らを雇い、手彩色技術を教えました。このことによって、日本に大量の手彩色写真が誕生するきっかけになりました。因みに当時の日本の手彩色写真は、外国人旅行客を対象としたお土産物として販売されるなど海外から大きく注目を集めました。
 手彩色活動が順調であったベアト達でしたが開業から2年後の1866年に横浜で発生した大規模な火災(慶応の大火または、豚屋火事)によって今まで撮影してきたネガフィルムや写真館を失ってしまいます。しかし、ベアトは、諦めず会社の再建を目指しました。明治政府誕生の1年後、1869年に再び横浜の地で写真会社「F. Beato & Co., Photographers」の立ち上げに成功し、外国人と日本人のおよそ9名で会社を運営していたとされています。その内の2名、日下部金兵衛は、国内外から大きく注目を集める手彩色写真の写真家として、上野彦馬は、日本初の戦場カメラマンとして後の日本の写真業界に大きく影響を与える人物が働いていました。

Shiba Chokugaku Mon

 明治維新によって大きく変わっていく日本。そんな激動の時代を彼らは、写真と手彩色で記録し続けました。次第に日本では、日下部金兵衛、玉村康三郎、鈴木真一、小川一真、内田九一、横山松三郎、アドルフォ・ファルサーリらなどの手彩色写真家が多く誕生していきます。そんな中、1877年オーストリアの写真家ライムント・フォン・シュティルフリート男爵(Raimund Freiherr von Stillfried)によってベアトの会社は買収され、写真会社「Stillfried & Andersen(Japan Photographic Association:日本写真社)」になります。その後も買収は続き、最終的には、ベアトの弟子であった日下部金兵衛とアドルフォ・ファルサーリが会社を引き継ぎます。

1900年代

東京名物満員電車

1900年に入ると日本は、私製はがきの使用を認可することになります。それまで、大日本帝國の管轄下であった郵便役所(現:日本郵便)が生産している官製はがきでなければ使用できない制限があったのです。そのため、私製はがきを認可することで民間の印刷会社などが制作した自由なデザイン(規定をクリアした)のはがきが購入・利用できるようになります。これによって、海外旅行者のお土産向けに販売していた手彩色写真を絵葉書(手彩色絵葉書を含む)として大衆にも楽しまれるようになる取り組みが盛んに行われるようになりました。特に拍車が掛かった出来事が1904年日露戦争です。開戦の記念絵葉書が一大ブームになり、絵葉書(手彩色絵葉書を含む)が庶民に浸透していったとされています。

Wallace Nutting's work

 日本では、絵葉書が脚光を浴びていましたが一方アメリカでは、大臣兼芸術家のウォレス・ナッティング(Wallace Nutting)の手彩色写真が注目されていました。1904年にニューヨークで写真スタジオを開業したナッティングは、多くの手彩色写真を制作し、販売しました。写真の多くが自然豊かで美しいアメリカの郊外やニューイングランドなどを移した写真がほとんどでした。着彩していたのは、彼だけではなく最大で200人を超える従業員を雇い、写真を着彩していたとも言われています。ネッティング自身、35年間も手彩色写真を制作し続けました。

Luis Márquez's work

 1915年に入ると、アメリカ、カナダなどの北米で日本と同様に手彩色写真型のポストカード(ギフトカード、お土産)として大衆の生活に浸透していきます。しかし、1929年に起こった世界恐慌の影響で手彩色写真を含むポストカードは、生産されなくなり、劇的に減少していきます。手彩色写真が大衆の生活から離れていく中、芸術家の中ではまだ灯火は消えていません。1930年代に入ると人形作家で有名なドイツ人芸術家ハンス・ベルメール(Hans Bellmer)が自身の人形作品をカメラで撮り、印刷した写真に彩色した作品を制作し始めます。この他にも1939年開催のニューヨーク万国博覧会メキシコパビリオンのアドバイザー兼写真家のルイス・マルケス(Luis Márquez)も行動に出ます。マルケスは、出身地であるメキシコを中心に活動し、先住民族を映した写真の着彩を主に行っていきました。
 世界中にカラーフィルムが生産され始めた1950年代。手彩色写真の生産は、ぽつりと止まってしまいます。日本では、1964年開催の東京オリンピックを期に高所得層からカラー写真文化が広がります。1970年代に入ってからやっと庶民の生活にもカラー写真が生活に溶け込み始めます。海外や日本でもカラーフィルムによるカラー写真ブームが到来し、手彩色写真文化が衰退したと思われがちですが芸術家を中心に再び再燃します。1970年代以降、ロビン・レニー・ヒクス(Robin Renee Hix)、エリザベス・レナード(Elizabeth Lennard)、チェコの写真家ヤン・ソーデック(Jan Saudek)、リタ・ディベート(Rita Dibert)など芸術に特化した手彩色写真作品が世の中に出回るようになります。これまで、日常非日常に関わらず、移り変わる時代の流れを記録してきた手彩色写真でしたが美を創作する芸術的な役割に置き換わった瞬間でもありました。

2000年代

 2000年代に突入すると劇的にパソコンが進化していき、高性能化していくと共に身近な存在になっていきます。紙媒体であった写真もデータに変わり、画像として劣化せず永遠に保存できるようになります。



着彩手法

アナログ手法

デジタル手法

錯視

Grid Illusion

Optical Illusion




カラー化による効果

時代の臨場感

自分ごとに返還

新たな歴史の発見




プロジェクト

早稲田大学

東京大学

九州産業大学




参考

参考文献

参考サイト